メシアニック運動を疑問視しておられる方に

文責:シオンとの架け橋 石井田直二

メシアニック運動は、様々な難しい問題を提起しており、様々な反論を呼んでいます。主な反論は、以下のようなものです。

この部分に関する詳論は、掲載に時間がかかると思われますので、ひとまず概論を掲載させていただき、時を追って拡充して行きたいと思います。

1)新約の福音に民族は無関係である

ユダヤ人は神に捨てられたという見解は少なくなりました。しかし、新約においてはユダヤ人もギリシア人も無い(ガラテヤ3.28)のだから、民族に差異は無い。ユダヤ民族は特別だとの見解は間違っている、という反論はよく出されます。

しかし、その御言葉は、男も女も無い、と続いています。男女に役割の違いは無いという極端な主張も耳にしますが、男性に妊娠と出産が不可能な以上、男女に役割の違いは無いという主張は無理があるでしょう。それと同様に、パウロの言葉は、上下関係は無いと言う意味であって、役割の違いを否定するものではありません。

ユダヤ民族が2千年近い苦難を経て約束の地への奇跡的な帰還を果たしたことは、神がまだユダヤ民族の使命を重視しておられる証拠ではないでしょうか。また、黙示録でイスラエル人が特別な役割を演じると預言されていることも、新約時代においてなおもユダヤ人が特別な存在であり続けることの証拠の一つです。

2)キリストが一度打ち砕いた「隔ての中垣」を立て直す運動だ

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き…」(エペソ2:14)とあるように、取り除かれたのは「敵意」であって、役割の違いが無くなったわけではありません。

「一つになる」のは、男と女が「一体となる」と書かれているのと同じで、愛によって一致するという意味に解するべきです。教会は一つにならなければなりませんが、それでも教会の中には使徒、牧師、教師、預言者など様々な役割があります。

問題は役割の違う人々が互いに「敵意」を持っているということですから、敵意を取り除く責任は、メシアニック・ジューと異邦人クリスチャンが等しく分担していると言うべきでしょう。ユダヤ人を崇拝するのでなく、見下すのでもなく、パートナーとしての関係を確立し、本当に一つになる必要があります。

2)律法主義ではないのか

ユダヤの祭を祝うことや、コシャー(食事律法)を守ることで「行為義認」ではないかという批判が、メシアニック運動に対してよく出されます。

ちなみに、メシアニックが律法を守ることにはいくつかの視点があります。

・正統派のユダヤ人に伝道しようとしても、律法を守っていないと家にも招けない。
・律法を守ることで「イエスを信じてもユダヤ人だ」とわかってもらえるので、「イエスを信じることはユダヤ人をやめること」という誤解を避けられる。
・律法を守ることは、神に対する感謝の表現である。
・ユダヤ人として当然のマナー、生活習慣である。
・神に命じられ、祖先たちが約束したのだから、その通りに守るべきだ。

いずれにしても、メシアニック・ジューは、救いは行いではなく恵によるものであることをよく認識していて、行いで救われるという話は聞いたことがありません。行いで義と認められるという教えは、もともと正統派ユダヤ教の中にも無いのです。

特にイスラエルのメシアニック・コングリゲーションについて言えば、彼らは世界中の教会からかなり徹底したチェックを受けているので、律法主義はほとんど無いと言って差し支えないでしょう。逆に、キリスト教会の方が暗黙の律法主義(牧師の命令に忠実に従い、十一献金、礼拝出席等をすれば救われる)がはびこっているのが実情ではないでしょうか。
なお、この問題の背景を知るためには、行澤一人師の「律法論-クリスチャンに恵みをもたらす律法」も有益です。

3)キリストの神性

キリスト教ではキリストは神であり人であると信じつつも「神だ」という点が、ユダヤ教ではメシアは「人間だ」という点が、長年にわたって強調されて来ました。

そこで、メシアニック・ジューたちは「神は唯一である」というユダヤ人の心情と矛盾しない形で、キリストの神性を表現しようとして、三位一体の「一体」に重点を置き、ユダヤ教の用語法を使ってメシアの神性を説明しようと考えます。

一方、多少とも知識のある人は「ユダヤ人がイエスを信じた」という話を聞くと「彼らが信じているイエスは、人間イエスではないのか」という疑念を持ちます。そして、キリスト教と少しでも違う表現に出くわすと、中世の異端審問さながらに「アラ探し」的な態度を取りがちです。

そこで、議論は感情的な方向に流れがちで、数年おきにまるで間欠泉のように議論が噴出します。この問題については「メシアニック運動とメシアの神性論」をお読みください。

4)十字架の贖い

メシアニック・ジューがシンボルとして十字架を使わず、十字架という用語も使わないことが多いことから「メシアニックの信仰は十字架抜き」という批判がされることがあります。これについては、「メシアニック・ジューについてのQ & A」の4に詳しい説明があるのでご参照ください。

5)ユダヤ民族の概念が明確でない

メシアニック運動は「ユダヤ人としてイエスを信じる」運動なので、誰がユダヤ人かという問題を避けて通れません。しかし「誰がユダヤ人なのか」という質問には、ユダヤ人自身も正確な答えは無いのです。

また、反ユダヤ主義者がよく引用する「アシュケナジは偽ユダヤ人」論もよく持ち出されます。それは、ハザール人が大挙してユダヤ教に改宗したことを理由に、現在のユダヤ人は本物のユダヤ人ではないとする説です。(ただし、この理論は様々な矛盾をかかえている上に、アシュケナジとセファラディの祭司系の人々が同じ遺伝子 Y Chromosome Aaronを共有しているという事実を説明できません。)

ユダヤ人と非ユダヤ人の子供は、どこまでユダヤ人なのか。キリスト教に改宗して何世代も経ったユダヤ人もユダヤ人なのか。等々、疑問は限りなく湧いてきます。

そこで、ユダヤ人の定義が不可能な以上、メシアニック運動は無意味な運動だという主張が出て来るわけです。

しかし、大筋で言えば、ユダヤ民族というものが現実に存在し、彼らが長年にわたって大変な苦難を強いられて来たことは事実です。たとえば、日本においても、いわゆる同和地区の人々とそうでない人々とを完全に区分することは不可能だと思いますが、それをもって部落問題が存在しないという主張は暴論でしょう。男と女でも、様々な理由で男性か女性か区分できない人がいますが、だから男と女という違いは存在しないと言う意見に同意される方は少ないと思います。

大筋で、自他共に「ユダヤ人」と認める人々が存在し、その人々が消えずに現在まで保たれて来たことは事実ですし、その人々が自分たちの故郷はイスラエルだと信じて来た、そして実際に彼らの多くがイスラエルに帰還移民したことも明らかです。現代イスラエル国家が「帰還法」により、ユダヤ人かどうかを判断できるわけですから、仮に完全でなくても「ユダヤ民族」という、かなり明確な境界線が存在することは明らかでしょう。

ただし、現在のメシアニック・ジューと言われる人々の中に、片親だけがユダヤ人であるなど、ユダヤ人と異邦人の境界線上の人がいることは事実として認めなければなりません。しかし、それを理由にメシアニック運動全体を否定するのは明らかに行き過ぎだと言うべきでしょう。

*メシアニック運動に関する、これ以外の反論がある方は、naoji@zion-jpn.or.jp までお知らせ下さい。時間のある限り回答するよう努力させていただきます。

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