メシアニック運動とメシアの神性論 文責:シオンとの架け橋 石井田直二 |
2008年から2009年にかけて、メシアニック・ジューたちの間で、メシアの神性論をめぐって何度かにわたり激しい議論が戦わされました。 発端はラビ的伝統を学ぶ必要があるかどうかを巡る論議なのですが、ラビ的文献を学ぶ必要が無いと主張する人々が、いきなりインターネットで「パリサイのパン種」等と非難したため、双方が感情的になり収拾がつかなくなりました。 そこで2009年1月末に、イスラエルメシアニックリーダー会議の主催によるリーダーたちの会議が、ヤッド・ハシュモナで開催されました。長い議論の末に参加した指導者の大半がメシアニックリーダー会議の宣言文に署名しました。この宣言文はメシアの神性に関するもので、1990年に作られ、受け入れられていたのですが、指導者たちにこの宣言文を承認するだけでなく署名するように強く勧める事になり、35人以上の指導者たちが署名したのです。 この会議の議論の焦点は、ラビ的伝統に権威を認めるべきではないものの、ユダヤ人にイエスを伝えるには「包装」にも注意を払わねばならないということでした。ラビ的伝統は、この「包装」に用いることは出来るということで、その時の議論は終わりましたが、まだまだ議論は続くと、多くの人々が考えています。 ■何度もくすぶるメシアの神性論 実は8年前にも、同じような議論がありました。2001年11月号のイスラエル・トゥデイ誌で、三位一体の教理にかなり挑戦的なコラムと共に、12人のメシアニック・ジューのコメントが掲載されたのです。この記事が「イスラエルのメシアニックは異端じゃないか」という印象を世界に与えてしまい、苦情が殺到しました。 これに困ったイスラエルのメシアニックは、キリスト教の教義と調和した宣言文に全指導者が署名して、事態を収拾しようとしました。しかし「キリスト教の異端審問みたいな圧力に、どうして屈しないといけないのか」との反対論が噴出し、結局、信条への署名は立ち消えとなりました。 その後、2003年のイスラエル・メシアニック連盟(MJAI)の大会でも、三位一体問題がテーマとなり、イントレーター師、スマジャ師、マオズ師、シュラム師ら多くの指導者が意見を述べました。そして同年の8月には、バルーフ・マオズ師が「ユダヤ教はユダヤ的でない」(Judaism is not Jewish)という著書で、メシアニック運動がラビ的ユダヤ教に迎合するために聖書の真理を曲げていると非難し、物議をかもしました。 こうした議論のずっと以前、1987年にもヨセフ・シュラム師は同じような議論に巻き込まれています。「メシアの神性を否定している」との嫌疑で、リーダーたちの「法廷」が開かれたのですが、結局はシュラム師が「無罪」ということになったのです。昔のことを知るリーダーたちは、「昔から何度も神性論争は繰り返されている」と語ります。 ■ユダヤ教のメシア観 キリスト教のキリストは「神であり人」だが、ユダヤ教のメシアは「人であって神ではない」というのが、キリスト教とユダヤ教双方の共通認識でした。そこで、メシアニック・ジュー達がイエスを神だと言うと、ユダヤ教からは「イエスが神だと信じているなら、多神教であってユダヤ教だとは言えない」という非難が出ます。そこで、メシアニック・ジューたちは、なるべくユダヤ人が納得できる形でメシアの神性を説明するために、様々な試みを行っています。 実は、正統派ユダヤ教において、メシアは神のほとんど全ての属性を備えているとされており、事実上メシアは神なのです。このことを強く印象付けたのが、支持者からメシアと目されていたルバビッチ派のシュヌルゾンという高名なラビ(レッベ)でした。彼の死後、弟子たちはこの「メシア」が復活・再臨すると宣言し、今もエルサレムに多くのポスターを貼り、バスに広告を掲載して「メシア来臨に備えよ」と呼び掛けています。 今まで、ユダヤ人たちは「平和をもたらすことができずに死んだからイエスはメシアではない」と主張していたのですが、シュヌルゾンが登場して、この反論は使えなくなってしまいました。実際、シュヌルゾンは死んでいるのではなく、永遠の生命を持ち、全世界を支配していると彼の弟子たちは主張しています。彼らは最近、イスラエルの一流紙に大胆な広告を掲載しました。その広告には「彼はメシアであり、神である」と、堂々と宣言されているのです。 アシェル・イントレーター師は「ルバビッチ派が彼らのラビは神だと大胆な声明を出したことにより、わたしたちの問題が解決されたようです。真のメシアの啓示に備えて、正統派ユダヤ人の心を神が整えて下さるようにお祈りください」(2007年9月28日・同師)と語っておられます。 ■異端審問と「怨念の対決」 ユダヤ教とキリスト教のメシア観は酷似しているというのが実態に近いのですが、両宗教の確執の中で、互いに相手を否定する神学を発展させて来ました。キリスト教は置換神学でユダヤ民族の選びを否定し、ユダヤ教は三位一体の教理を「多神教」と非難して来ました。そこで、三位一体論や、メシアの神性論は「怨念の対決」の様相を呈しています。 メシアニック運動における神性論議論の問題は、純粋に神学的な意味でのキリスト論に関する議論というよりも、「なぜ、ギリシャ・ローマ的な論法や用語法を押しつけられねばならないのか」というメシアニック・ジューの怒りと、ユダヤ人がイエスを信じたという話を聞くと中世の異端審問さながらに「アラ探し」的な態度を取りがちなクリスチャンの、感情的な問題の方が大きいと言えるでしょう。 ■正しい理解に向けて 三位一体は「現代人のために簡単にまとめることは全く不可能である」とウイリアム・ホーダーン師の「現代キリスト教神学入門」にも断定されているほどに難解な教理なのですが、それを議論しているメシアニック自身がよく理解していないと、デービッド・スターン師は指摘しています。(イスラエル・トゥデイ誌2002年7月号) また同様に、メシアニック・ジューが三位一体論に異を唱えたという話を聞いて顔色を変えているクリスチャンの、どれだけの人が正確に三位一体論や神性論を理解しているのか、ということを考えてみると、心もとないと言うべきでしょう。 多くのメシアニック・ジュー指導者と話し合った体験から言って、彼らのメシア観は、平均的なクリスチャンのキリスト観とあまり変わりません。しかし、前述のような長年の歴史的経緯から、メシアニック指導者の間では、ユダヤ的な用語を使った新しい表現のメシア論を樹立しようという意識が強く、かなり大胆で実験的な発言も聞かれます。 ■神を「知っている」ユダヤ人 クリスチャンの間では、もし神観が食い違うと大変で、「じゃあ、あなたの信じている神と、私の信じている神は別の神のようですから、私たちは兄弟じゃないですね。さようなら」ということになりかねません。 幼い時に生き別れになった兄弟が、どこかで出会って、双方が親の思い出を話し合っている場面を想像してみて下さい。一方が「私の父は農民でした」と言い、他方が「私の父は猟師でした」と言ったとします。すると「私たちは兄弟じゃなかったようですね。さようなら」という結論になるでしょう。 ところが、生まれてこの方、ずっと一緒に暮らして来た兄弟が、同じ会話をしたらどうなるでしょうか。父は一人しかいないわけですから、「確かに漁師だった」「確かに農民だった」と議論して、その結果「農民だったが、毎夜イノシシが畑を襲うので、時々、鉄砲で撃って食料にしていた」という真実が明らかになるでしょう。 メシアニック・ジューたちは、ユダヤ人として、肉にある段階から強制的に神の民とされ兄弟にされていると同時に、メシアの血によっても兄弟とされています。だから、神は「自明」の存在であって、誰について議論しているかを、彼らはよく知っています。意見が食い違っても「兄弟じゃないですね。さようなら」という結論にはなりません。 この関係は、私たち異邦人クリスチャンも見習うべきではないかと思います。 |
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