メシアニック・ジュー(ユダヤ人信者)の歴史年表 ただ今工事中(徐々に長くなっていきます) |
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年と主な出来事 |
内容 |
社会情勢 |
メシアニック・ジューの歴史年表(原始キリスト教) |
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30年 イエスの死と復活、原始キリスト者の共同体誕生 | イエス・キリストの十字架による死と復活が起こる。その後聖霊降臨があり、「その道」と呼ばれるユダヤ教ナザレ派として、イエスを信じる共同体が生まれる。(原始キリスト教の誕生。)当時の信者はすべてユダヤ人であった。(使徒1〜2章)その頃はまだ「キリスト教」ではなく、「ユダヤ教ナザレ派」という認識であった。 | (14〜37年)ローマ皇帝ディベリウスの治世 (26〜36年)ユダヤ属州の総督ポンテオ・ピラト |
32年 ステパノ殉教。サウロの迫害 | 信者の共同体で執事の役割を任ぜられたステパノ、ユダヤ議会に引き出され、大祭司の前で証言をする。その後、石打の刑に処せられる。(使徒6:8〜7:60)サウロはその時刑に立ち会っていた。サウロは教会を荒らして、迫害して回った。(使徒7:58〜8:3)迫害が激しくなり、地方に散った信者たちは、その共同体をユダヤとサマリヤの諸地方に広げていった。(使徒8:1) | |
33年 サウロの回心(32年の説もある) | サウロ、信者たちを迫害するためダマスコへ向かう途中、キリストと出会い回心する。(使徒9章) | |
35〜40年の間 異邦人信者の出現 | 年を特定できないが、最初の異邦人であるコルネリオ(イタリヤ隊に属するローマの百人隊長)が救われた(使徒10章)のは、紀元35〜40年の間であるという通説がある。 | (37〜41年)ローマ皇帝カリグラの治世 38年 エジプトのアレキサンドリアでギリシャ人とユダヤ人の対立激化。暴動に発展する。フィロンを主席とするユダヤ使節団、ローマへ向かう。 40年 ユダヤでギリシャ人とユダヤ人の対立激化。カリグラに捧げられた祭壇をユダヤ人が粉砕、カリグラはシリア総督ペトロニウスに対し、エルサレムの大神殿にユピテル神像を立てるように命じ、公開したためユダヤ全土がストライキに突入。ペトロニウスは、神像の製作を遅くさせ、サボタージュによってそれを回避した。怒ったカリグラ帝はペトロニウスに自殺を命じたが、その命令書が彼の元に届く前に、カリグラは殺されてしまい、ペトロニウスは命びろいをした。 |
42 or 43年 ヨハネの兄弟ヤコブ殉教 | ヘロデ・アグリッパ1世によってヨハネの兄弟ヤコブ(大ヤコブとも言われている。また、44年とも言われている。)を捕らえ、処刑した。(使徒12:2)ペテロも捕らえて牢に閉じこめたが、御使いによって解放された。(使徒12:4-11)その後、ヘロデ・アグリッパは毒虫に咬まれて死ぬ。(使徒12:23) |
(41〜54年) ローマ皇帝クラウディウス |
43-44年 アンテオケでキリスト者誕生(42年から始まったという説もある) | ステパノ殉教から始まった迫害から、散らされたユダヤ人信者はフェニキヤ、キプロス、アンテオケに伝道したが、最初はユダヤ人以外には福音は語られなかった。しかし、キプロス人やクレネ人が福音を受け取り、彼らはアンテオケへ行ってギリシャ人に伝えたところから、ギリシャ人へと福音が広がっていった。アンテオケで信者の数が増えた話をエルサレムのユダヤ人信者共同体が聞きつけ、バルナバを派遣し、バルナバはタルソに滞在していたパウロを連れてアンテオケへ行った。そこで、始めて、アンテオケの信者たちのことが「キリスト者」と呼ばれるようになった。(使徒11:19-26) | 44年 チウダの反乱(使徒5:36)同年、ヘロデ・アグリッパ1世の死(44年)、後を息子のアグリッパ2世に引き継がせるが、ユダヤはローマの直轄統治に戻される。 |
45〜48年 ガラテヤ教会 | パウロ、ガラテヤでのキリスト者共同体を作る。 | |
47 or 48年 サウロ(パウロ)の第一次伝道旅行 | アンテオケ教会にはバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロらが指導者としていた。その内、サウロとバルナバはキプロス島、ガラテヤを始めとする小アジア各地を回る。(使徒13〜14章) | |
48 or 50年 | エルサレム会議(使徒15章) |
50年 クラウディウス帝、アグリッパ2世をユダヤの王位に就かせ、ローマはエルサレムと周辺を直轄する分割統治を行う。 |
51年 ピリピ教会、テサロニケ教会 | 51年 パウロ、ピリピ(ギリシャ北部、マケドニア地域)でキリスト者共同体を作る。アジアではない、初のヨーロッパにおけるキリスト者共同体の誕生である。 | サマリヤ人とユダヤ人の衝突。 |
49〜52年 サウロ(パウロ)の第二次伝道旅行 | エルサレム会議を受けて、パウロはバルナバと共にアンテオケへ行き、ユダとシラスと共に会議で決まった内容を各地へ伝える。途中、パウロとバルナバは激しく反目し、別行動を取ることとなった。バルナバはマルコを連れてキプロスへ渡り、パウロはシラスと共にシリヤやキリキヤ、ギリシャ地方を回った。(使徒15〜18章) 52年 パウロ、Iテサロニケ、IIテサロニケ書を出す。 |
49年 皇帝クラウディス、ユダヤ人とキリスト教徒をローマから追放(使徒18章)。 (54〜68年) ローマ皇帝ネロの治世 |
53〜56年 サウロ(パウロ)の第三次伝道旅行 | コリントのアクラ(ポント生まれのユダヤ人)と妻プリスキラの家に滞在していたパウロは、二人を伴い、エペソへ行き、カイザリヤからエルサレムを経由し、アンテオケ、ガラテヤ地方、フルギヤなどを回った。(使徒18章) |
(54〜66年) ユダヤ急進派である熱心党やシカリ派のテロ勃発。 |
56年 サウロ(パウロ)の逮捕 | エルサレムでアジアから来たユダヤ人によって群衆が煽り立てられ、パウロは逮捕される。(使徒21章)その後カイザリヤに護送され、そこで拘留される。アグリッパ2世の前で答弁する。(使徒26章) | 56年以降 ユダヤ各地での「メシア」出現やテロにより、昏迷度を深めていく。 |
57〜58年 パウロ書簡の発行 | パウロ、ガラテヤ書を出す。(パウロがエペソ、あるいはマケドニア、あるいはコリント滞在中に書いた。 ローマ書はガラテヤ書の後に書かれた。)
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59年 サウロ(パウロ)ローマへ護送 | パウロはマルタ島を経由してローマへ護送される。(使徒28章) | (60〜62年) ユダヤ総督ポルキオ・フェスト |
60年 福音書が書き始められる | 医者でありギリシャ人であるルカ、ルカ書を書く。ルカは医者として、また同僚としてパウロの宣教旅行に同行している。なお、聖書全体で、異邦人(ギリシャ人)が書いた書はルカが書いたルカ書と使徒行伝だけであり、後すべてユダヤ人によって書かれた。 取税人マタイ、マタイ書を書く。彼は最初にヘブライ語で書き、その後ギリシャ語で完成版を作成したと言われている。マタイ書のヘブライ語版は残念ながら今は見つかっていない。 マルコ、マルコ書を書く。マルコはバルナバの従兄弟(コロサイ4:10参照)であり、バルナバがレビ人(使徒4:36)であるので、彼も恐らくレビ人だったと思われる。 |
60年 ユダヤ総督フロルス、インフラ整備のため神殿から宝物を持ち出したのをきっかけに、エルサレムのユダヤ人急進派が反乱を起こす。ユダヤ急進派がローマ守備隊全員を虐殺する。反ローマ暴動は各地で勃発する。シリア総督ケスティウス率いるローマ軍はエルサレム攻略に失敗し撤退中にユダヤ軍に惨敗する。 ネロ帝、ユダヤ制圧担当にウェスパシアヌス将軍を任命する。 |
61〜63年 | パウロ、ローマで囚われの身となる(使徒28章) この頃、ピリピ書、エペソ書、コロサイ書を出す。 パウロ、ヘブル書を書く。(ヘブル書はパウロが書いたという説と、著者不明という説もある。) |
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62年 主の兄弟ヤコブの殉教 | エルサレム教会を取りまとめていた主の兄弟ヤコブ(小ヤコブ)がエルサレムで殉教する。ヤコブはユダヤ教共同体で高く尊敬されていて、「義の教師」(ヘブライ語でザディクまたはザドク、ギリシャ語でディカイオス)と呼ばれていた。つまり、ユダヤ教も認めるユダヤ教徒として非の打ちようもない信仰生活を送っていた。そのヤコブの死により、ユダヤ教共同体とユダヤ人信者の間に亀裂が走りはじめ、ユダヤ教と「キリスト教」へと分派していく源になったとも言われている。 パウロ、エペソ書、Iテモテ、IIテモテ書、テトス書、(恐らく)ピレモン書を出す。 |
62年 サドカイ派大祭司アナノスによるパリサイ派弾圧で、小ヤコブ殉教。 |
63年 使徒行伝の作成 | ルカ、使徒行伝を書く。 ペテロは恐らくIペテロ、IIペテロをこの頃書く。 |
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64年 サウロ(パウロ)の殉教(ローマ)、ペテロの殉教 | (二人の殉教年は64〜67年と幅が広い。) | 64年 ローマ大火、ネロ、キリスト教徒迫害 |
66-73年 第一次ユダヤ戦争 | 67年 ユダ書がユダ(イエスの弟)によって書かれる。 この頃、エルサレム地域にいたユダヤ人キリスト者は「山へ逃げなさい」という主イエスの忠告通り避難する。彼らは現在のヨルダンにあるペラへ逃れたという説がある。また、一部は小アジアやギリシャ地方へ逃れたユダヤ人キリスト者もいたと記録されている。反乱に加わらなかったユダヤ人キリスト者(orナザレ派)は、ここで「裏切り者」という烙印を押されてしまう。 |
66年 マサダ要塞、ユダヤ急進派のシカリ派の手に落ちる。 67年 ウェスパシアヌス将軍、進軍開始。ヨタパタを陥落させ、ガリラヤを制圧する。 |
68年 | 68年 ネロ皇帝の自殺。ウェスパシアヌス将軍、エルサレム進軍を中止する。 | |
69年 四皇帝乱立時代 | 68-69年 四人の皇帝が乱立する四皇帝の時代。その後、ウェスパシアヌスが皇帝となる。息子のティトゥスにユダヤ地方の鎮圧を命じる。 (69-79年) ローマ皇帝ウェスパシアヌスの治世) |
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70年 エルサレム陥落 同年、ヤブネにサンヘドリン再構築 |
エルサレムを中心としていたユダヤ人キリスト者共同体が徐々に消滅していく。離散各地へ散っていき、キリスト者共同体の中心が小アジアのアンテオケの方へ移っていく。 | エルサレム攻略は3月の過越の祭りの頃開始され、9月頃に完全に陥落した。市民の犠牲者が100万人に及ぶ(ヨセフスの記録)のは、当時過越の祭りで各地からエルサレムに人が集まっていたからだと言われている。 ユダヤの最高法院であり、大祭司を筆頭に71名のメンバーで成るサンヘドリンは、元々エルサレムにあったが第一ユダヤ戦争でエルサレムから避難し、ベン・ザッカイ師の指導の元ヤブネ(ユダとダン地方の間にある町)に設けられた。その後ユダヤ地方の各地を転々とした。(ウシャやティベリアなど) |
73年 第一次ユダヤ戦争の終結 |
紀元70-100年の間、イエスを信じるユダヤ人は3派に分かれていた。「エビオン派」(異邦人信者にも割礼が必要とするユダヤ化主義者)、「ナザレ派」(使徒たちの教えを守り、ユダヤ的風習を維持する、今でいうメシアニック・ジューに近い人々)、そして「同化主義者」(離散の地に住むヘレニズムの影響を強く受けたユダヤ人信者で、彼らは圧倒的な非ユダヤ文化の中で暮らしていて、イエスを救い主と受け入れたので、ユダヤ人としてのアイデンティティーを失ってギリシャ、ローマ人信者たちに同化してしまった。) | マサダの陥落。要塞に立てこもっていたユダヤ急進派のシカリ派約960名はそこで自害して果てる。 |
73〜76年 | 神殿を失なったため、シナゴーグを礼拝の中心とするラビ的ユダヤ教がここに生まれる。 また、エルサレムを失い、主の兄弟ヤコブを失ったキリスト教会は、「神はイスラエルを捨て去った」と思いこみ、急速に異邦人化していく。 |
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79年 | (79-81年)ローマ皇帝ティトゥスの治世(ウェスパシアヌスの息子) | |
80年 サンヘドリンがウシャに移動 | サンヘドリンはガマリエルII世の指導の元、ガリラヤ西部にあるウシャに移動。 | |
81年 | (81-96年)ローマ皇帝ドミティアヌスの治世(ティトゥスの弟) | |
90年頃 ヨハネによる福音書 同年、ユダヤ教が「18の祝祷」に「背教者の排除」呪いの祈りを入れ、ユダヤ人信者をシナゴーグから追放する。 |
主の愛する弟子であるヨハネがヨハネ書を書いたのは90年頃と言われている。彼は主が復活した直後、彼がまだエルサレムにいた頃にヘブライ語で書き、その後エペソでギリシャ語で完成させたと言われている。残念ながら、ヘブライ語のヨハネ書は残っていない。 ユダヤ教の祈祷「シェモナー・エスレ18の祝福」に「ビルカット・ハ・ミニーム背教者の排除」が加えられたことから、ナザレ派、ユダヤ人信者たちはシナゴーグにいられなくなってしまい、ユダヤ教と決別せざるを得なくなった。 |
90年 ヤブネ会議が開催される。(パリサイ派の集会で、ユダヤ教の教義や異端を定義する会議だった。この時、ビルカット・ハ・ミニーム(背教者の排除)と呼ばれる祈祷文がユダヤ教の「18の祝福(シェモナー・エスレ)」あるいは「起立祈祷(テフィレット・ハ・アミダー)と呼ばれる祈祷文の12番目に付け加えられた。それは異端者を呪う祈祷だが、ナザレ派を名指ししてそれを呪う内容であった。後日キリスト教ヨーロッパの支配の元強制的に内容を変更させられた。) この祈りによって、シナゴーグから「ナザレ派」のユダヤ人は追放される形となった。 |
96年 ヨハネの黙示録 |
ドミティアヌス帝、ダビデの血筋の者を探して捕らえるように命じ、イエスの弟ユダの孫を捕らえる命令を出した。尋問の後釈放。(エウセビウスが記録) 同年、パトモス島に投獄されているヨハネ、黙示録を書く。その後、ヨハネは釈放され、エペソに戻った。 |
(96-98年)ローマ皇帝ネルウァの治世 |
100年 反ユダヤ書簡の発行開始 | 「バルナバの書簡」がこの頃出される。それによると、ユダヤ人、ユダヤ教、律法に関して、教会とシナゴーグは何らかの有意義な関係を持つことは不可能だとする表現が用いられている。(H. L. Ellison: The Mystery of Israel p82より) | (98-117年)ローマ皇帝トライアヌスの治世 |
115年 ユダヤの反乱(キトス戦争) | (115-117年)キトス戦争とも言う。ユダヤ一帯で反乱が勃発。エジプトのアレキサンドリア、シリアのキレナイカ、キプロス、メソポタミアに飛び火。 その冬、ローマ軍冬営中のアンティオケで大地震発生。トライアヌス帝が軽傷を負う。 |
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117年 | (117-138年)ローマ皇帝ハドリアヌスの治世 | |
130年 ハドリアヌス帝、ユダヤを視察 | ハドリアヌス帝、ユダヤを視察する。廃墟であったエルサレムにユダヤ人を住まわせようと考えていたが、視察した後街を「アエリア・カピトリーナ」と改名することにし、ローマ式の街の整備を命じる。またユダヤ教徒の割礼を禁止する。 「アエリア・カピトリーナ」への改称は紀元131年、あるいは132年と言われている。(紀元131年に廃墟であった街の復興起工式が行われ、アエリア・カピトリーナ記念コインが紀元132年に発行されている。 |
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132年 第二次ユダヤ戦争 | 当初、バル・コクバの乱にナザレ派のユダヤ人も加わっていたが、ラビ・アキバがバル・コクバこそ救い主(メシア)であると宣言してしまったがため、イエシュア(イエス)を救い主と信じるナザレ派は戦列から撤退して反乱に加わらなかった。そのため、ユダヤ教徒はナザレ派をまたもや「裏切り者」として遠さげてしまった。 | バル・コクバの反乱勃発。エルサレムにおいて、バル・コクバとラビ・アキバが指導するユダヤ教徒の反乱が生じる。 |
135年 バル・コクバの乱の終結。ユダヤ地方を「シリア・パレスティーナ」に改称する。 |
エルサレムを中心とするユダヤ人キリスト者、ナザレ派の共同体はここで事実上消滅する。彼らはペラ、コカバ、コエレ・シリア、ハウラン、バタニア、そしてデカポリスへ散っていった。(詳細は「歴史の彼方へ去ってゆくメシアニック・ジューたち(2)」を参照。 |
ローマ軍によりエルサレム陥落。ユダヤ教徒のエルサレム地域での反乱が事実上終結する。ハドリアヌス帝は反乱に加わったユダヤ教徒をエルサレムから追放し、ユダヤの属州名を「シリア・パレスティーナ」に変更した。そして、ユダヤ人の立ち入りを一切禁止した。(アヴの月9日だけ西の壁に巡礼することを許したのはコンスタンティヌス帝であったと言われている。) |
136年 ベティル砦の陥落 第二次ユダヤ戦争終結 | なお、離散の地でのナザレ派の人々は、2〜3世紀の間、上記の地に細々と存在していたが、6世紀頃イスラム教の台頭によって完全消滅したと思われる。 | 反乱し続けるユダヤ教徒が立てこもっていた最後の砦ベティルが陥落し、バル・コクバは戦死、ラビ・アキバは処刑される。 |
138年 | (138-161年)ローマ皇帝アントニヌス・ピウスの治世 | |
140年 サンヘドリン、シェファラムに移動 | ガマリエルII世によって、サンヘドリンはシェファラム(カルメル山の南、ナザレの北にある町)に移動。 | |
193年 サンヘドリン、ティベリアに移動 | (193年)ローマ皇帝コモドゥス死去。五皇帝が乱立し、その後セプティミウス・セヴェルス帝の治世が始まる(193-211年)。 ユダII世によって、サンヘドリンはティベリア(ガリラヤ西湖畔の町)に移動。 |
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313年 ミラノ勅令 | ローマ皇帝コンスタンティヌスの治世(307-363年) この年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令を発し、キリスト教を公認した。ミラノ勅令は、一神教、多神教に関わらず「信教の自由」を認めるものであり、この勅令によってキリスト教が国教とはなっていない。 |
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325年 第一回ニカイヤ公会議 | キリスト教徒間の教義論争を解決するために初の公会議である第1ニカイア公会議を開催、三位一体説を正統とし、アリウス派を異端と決定。 | |
330年 ローマ帝国の首都がコンスタンティノポリスへ移動 | コンスタンティヌス帝により、ローマ帝国の首都がコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)へ移動する。 | |
358年 サンヘドリンの解散 | サンヘドリンの解散。ユダヤ教の最高法院であり、すべての宗教的決定権を持っていた組織がここに消滅する。 |
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395年 ローマ帝国の東西分裂 | 先代テオドシウス1世が死去し、息子のホノリウスに西ローマ、アルカディウスに東ローマを治めさせる。 | |
480年 西ローマ帝国滅亡 | 西ローマ帝国ネポス帝死去。西ローマ帝国の滅亡。 | |
メシアニック・ジューの歴史年表(近代・現代編) 近代の有名なリバイバルも含めています(赤文字) |
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年と主な出来事 |
内容 |
社会情勢 |
1700年 | (1517-1917年)イスラエルの地(パレスチナ地方)はオスマン帝国の支配下にある。 イェフダー・ハシッドら、エルサレムにフルヴァ・シナゴーグ設立(1720年破壊) |
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1777年 | ロシアの300人のハシディズムのユダヤ人がイスラエルの地に帰還 | |
1806年 サンヘドリンが一時的に復活する | フランスのナポレオン治世の元、サンヘドリンが一時的に復活する。その後再び消滅。 | |
1809年 | London Society for Promoting Christianity among the Jews (London Jews Society)(ロンドン・ユダヤ人へのキリスト教推進教会orロンドン・ユダヤ人伝道会)設立。英国のプロテスタント宣教団体によって設立された。後に沖縄へ宣教するベテルハイムもこの団体の一員であった。 | |
1846年 ベテルハイム、沖縄上陸 | (1846-1854年)ハンガリー生まれのユダヤ人信者であったベルナルド・ベテルハイム(Bernard Bettelheim)がこの年沖縄に上陸し、宣教活動を開始する。日本にとって最初のプロテスタント宣教は、ユダヤ人の手で行われた。 | |
1850-1900年 | 19世紀の中頃、多くのユダヤ人がイエス・キリストを信じ既存のキリスト教会に所属した。当時ユダヤ人信者たちはユダヤ的伝統文化を守る活動には至らず、自身のことを「ヘブル・クリスチャン」と呼んでいた。この頃、ユダヤ人信者は日曜日は教会に行って礼拝し、週の中頃にユダヤ人信者同士で集まって交わっていた。その中で、自分たちのアイデンティティーとその文化的表現について話し合うようになり、「ユダヤ人としてのアイデンティティーを保ったままクリスチャンになれるのか」というテーマで議論し合ったという。当初教会は彼らが独立したコングリゲーションを設立することは許さず、ただ家庭集会をユダヤ式に行うことは、一部では許可していたもよう。 | |
1854年 ベテルハイム 日本を去る | 日本の横浜にペリー提督率いる黒船が来航。3月3日(新暦3月31日)に神奈川で日米和親条約を調印した。またその後、那覇に寄港して、同年(新暦7月11日)、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。この時、ベテルハイムは通訳として調印に立ち会い、日本の開国の際の当事者であった。ベテルハイムはペリーの艦隊と共に日本を去った。 | |
1860年 | エルサレム城壁の外で、ミシュケノット・シャアナニームが建設される。エルサレムの地へのユダヤ人帰還が始まる。 | |
1866年 | The Hebrew Christian Alliance of Great Britain(大英帝国ヘブル・クリスチャン同盟)と、Prayer Union of Great Britain(大英帝国祈祷連合)の創立。 | |
1878年 | Petah Tikvah Kibbutz: Yehoshua Stamperらによって、エリコの近くにあるAchor Valleyに、イスラエル建国前の最初のキブツが誕生。 | |
1881年 第一次アリヤー(ユダヤ人のイスラエルの地への帰還)、ヘブライ語復興運動開始。 | Jesus Is Coming (イエスは来る)がWilliam E. Blackstoneによって書かれ、100万部のベストセラー。 | 最初のイスラエルの地への本格的なアリヤー(帰還)が開始される。東ヨーロッパ各地からの移民が最初で、25,000人が移住する。 エリエゼル・ベン・イェフダーによるヘブライ語復興運動開始。 |
1882年 近代における最初のメシアニック・シナゴーグ設立 | 旧ソ連のモルドバで、ジョセフ・ラビノウィッツが近代において最初のメシアニック・シナゴーグを設立した。 | |
1890年 | Hadera Settlement:東ヨーロッパ、特にバルト3国からの移民による開拓開始。 | |
1894年 | Chosen People Ministries(選ばれた民への宣教)創立。(米国) | フランスで「ドレフュス事件」が起こる。ユダヤ人砲兵大尉だったドレフュスがドイツと通じているというスパイ容疑で逮捕されたが、それは後に冤罪であることが分かる。この事件をきっかけに、フランスは自由と民主主義・共和制擁護か否かの一大政治闘争の色彩を帯び始め、フランス世論を二分して展開された。また、軍部の権威は失墜し、弱体化を招いた。 この事件の時新聞記者であったテオドール・ヘルツェルはフランスの反ユダヤ主義を目のあたりにし、後にシオニズム運動を展開することになる。 |
1897年 第一回シオニスト会議。 同年、二人目のメシアニック・ジュー宣教師(英国国教会司祭)であるシェレシュウスキー来日。 |
スイスのバーゼルで、テオドール・ヘルツェルらによって、World Zionist Organization(世界シオニスト機構)が組織される。第一回シオニスト会議開催される。 (1897-1906年)シェレシュウスキー(Samuel Isaac Joseph Schereschewsky)来日。彼はベテルハイムが所属していたロンドン・ユダヤ人伝道会の宣教師によって信仰に導かれ、その後英国国教会の司祭となり、来日した。彼はここで旧約聖書を北京語に、新約聖書を簡略広東語に訳した。1906年、彼は東京で亡くなり、青山墓地に葬られた。 |
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1904年 第二次アリヤー | 1904-05:Welsh Revivalが、イギリスのウェールズで起こる。Loughor, Wales (Evan Roberts師の指導) | (1904-1914年)第二次大規模アリヤー。また、ヘブライ語母国語とする運動の活発化。 (1904-1905年)日露戦争。戦費の調達のため、日本銀行副総裁高橋是清は渡米したが相手にされず、渡英した時、帝政ロシアを敵視するアメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した。 |
1906年 | 4月14日:Azusa Street Rivivalがアメリカ、ロサンゼルスで起こる。黒人指導者であるWilliam Seymourの元、多人種の集団が救われるなど、リバイバルが始まる。 | |
1907年 | 朝鮮半島の平壌で、3月までに3000人、同年の中旬までに3万人がキリストを受け入れる。その後、日本の植民地支配、中国やソ連の共産党支配の元、数千人が殺されたが、ソ連侵攻以前までは、平壌では毎朝5時に1万人が祈っていたという。 | |
1909年 | 9月26日 Kibbutz Deganyaが、テオドール・ヘルツェルらによって開墾。 | |
1914年 第一次世界大戦 | (1914-1918年)第一次世界大戦 | |
1915年 マクマホン宣言 | The Hebrew Christian Alliance of America (HCAA)(アメリカ・ヘブル・クリスチャン同盟)の創立。この団体は後日Messianic Jewish Alliance of America (MJAA)(アメリカ・メシアニック・ジューイッシュ同盟)となる。(米国) | (1915年10月)フサイン=マクマホン協定(マクマホン宣言):イギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンが、アラブ人の領袖であるメッカ太守フサイン・イブン・アリーと結んだ協定で、イギリス政府は、オスマン帝国との戦争(第一次世界大戦)に協力することを条件に、オスマン帝国の配下にあったアラブ人の独立を承認すると表明していた。フサインは、このイギリス政府の支援約束を受けて、ヒジャーズ王国を建国した。
一方でパレスチナでの国家建設を目指すユダヤ人に支援を約束し(1917年のバルフォア宣言)、他方でアラブ人にも独立の承認を約束するという、このイギリス政府の矛盾した対応が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったといわれる。しかし、フサイン・マクマホン協定に規定されたアラブ人国家の範囲にはパレスチナは含まれていないため、この二つは矛盾していないし、フサイン・イブン・アリーも、エルサレム市以外のパレスチナへの関心は無かったことが、後の息子ファイサルとハイム・ワイツマン博士との会談で証明されている。(Wikipediaより) |
1917年 バルフォア宣言 | (11月2日)イギリスの外務大臣アーサー・ジェームズ・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーであるライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム支持表明。この宣言では、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束している。(Wikipediaより) (1917-1948年)イスラエルの地はイギリスの委任統治下にある。 |
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1919-1923年 第三次アリヤー | 第三次アリヤー。主にロシアからの大量帰還が始まる。 | |
1922年 | イギリス、国際連盟によりパレスチナの委任統治権を認められ、パレスチナへのユダヤ人移民と開拓の助成の責任を課せられる。 | |
1923年 | オスマン帝国の滅亡。トルコ共和国の誕生。 イギリス、ゴラン高原をシリアのフランス委任統治領として割譲。 |
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1924年 第四次アリヤー | 第四次アリヤー。主としてポーランドからの大規模な帰還 | |
1925年 | The International Hebrew-Christian Alliance (IHCA)(国際ヘブル・クリスチャン同盟)の創立。この団体は後日International Messianic Jewish Alliance(国際メシアニック・ジューイッシュ同盟)となる。(米国) Kehilat Ivrim Meshihiim Biyerushalaym(ケヒラット・イヴリム・メシヒーム・ビイェルシャライム)「エルサレムメシアニックユダヤ人会衆」がエルサレムで設立。初代教会をモデルとするユダヤ的文化表現を復興させようとしたコングリゲーションであったが、海外の教会の圧力により4年で閉じる。 |
(1月)イタリヤでムッソリーニが独裁支配開始 (3月)ドイツで国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)再建 |
1929年 ウォール街の大暴落(世界大恐慌の始まり) | ユダヤ教の聖地ツファットで、アラブ人テロリストの襲撃により133名のユダヤ教徒が虐殺される。 ヘブロン事件:ユダヤ教の聖地ヘブロンで60名のユダヤ教徒が虐殺され、3000年の歴史を持つヘブロンのユダヤ人コミュニティーが滅亡" (1月)ヨシフ・スターリンが、レフ・トロツキーを国外追放。スターリンの独裁体制がここに完成。 (8月)エルサレムで、ユダヤ人とアラブ人が対決する、嘆きの壁事件勃発。 (10月24日)ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落。世界恐慌の引き金となる(いわゆる「ブラック・サーズデー」)。 |
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1933-39年 第五次アリヤー | 第五次アリヤー:主としてドイツからの大規模な帰還。 | |
1939年 第二次世界大戦勃発 | (1939-1945年)第二次世界大戦 (1939年11月9日)水晶の夜事件。ナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した事件。ナチスによるホロコーストの本格化。600万人のユダヤ人等が殺された。 ソ連政府により、第二次世界大戦のユダヤ人難民のユダヤ自治区への流入が禁止される。また、イギリスも白書を出し、ユダヤ人帰還を制限させる。 |
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1940年頃 | 第二次世界大戦直前には、ヘブル・クリスチャンの教会がドイツ、ポーランド、アメリカ、アルゼンチンに存在していた。 | |
1945年 第二次世界大戦終結、ナグ・ハマディ文書の発見 | 第二次世界大戦終了 エジプトで、ナグ・ハマディ文書が発見される。聖典から外された外典、偽典、主にグノーシス派の文書が発見された。 |
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1946年 東西冷戦開始 | ヨーロッパ、東西冷戦始まる | |
1947年 死海文書の発見 | (11月29日)国連決議181号としてパレスチナの分割統治案が決議された。 死海文書がクムラン洞窟から発見される。 |
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1948年 イスラエル建国、第一次中東戦争 | The Latter Rain Rivival起こる。Katherine Koolman師、Oral Roberts師、Jack Coe師、William Branham師、Billy Graham師らが活動する。 | (1948年5月14日)イスラエル建国。国際統治案もあったエルサレムの西半分がイスラエル領となる。 (1948年5月15日〜1949年7月)第一次中東戦争 ヨーロッパ、北大西洋条約機構(NATO)発足 大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、日本から独立。 |
1950年 | 各地でカリスマ運動が始まる。1950-1970年代まで続いた。 | (1950年6月25日〜1953年7月27日停戦)朝鮮戦争 |
1956年 第二次中東戦争 | (1956年10月29日〜1957年5月)第二次中東戦争(シナイ作戦)。エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻。米・ソの仲介により三国は撤退 |
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1957年 | Moshe Ben Meir(モーシェ・ベンメイル)イスラエルで初めてのヘブライ語の歌集「シール・ハダッシュ(新しい歌)」を出版する。 | |
1958年 イスラエルで最初のメシアニックコングリゲーション設立 | ゼブ・コフスマン(Ze’ev Kofsman)によって、イスラエルに初の法人格を持つメシアニック・コングリゲーション「イスラエリ・メシアニック・アセンブリー・エルサレム・アッセンブリー」(Kehila Meshihit Israelit Kehilat Yerushalaim)が設立される。近代イスラエルにおける最古のメシアニック・コングリゲーションと言われている。 | 欧州経済共同体(EEC:EUの前身)発足 |
1960年 ベトナム戦争、アフリカの年 | ゼブ・コフスマン(Ze’ev Kofsman)はHalapid(たいまつ)というヘブライ語のメシアニック・ジュー向けの機関誌を発行し始めたが、2年で終え、その後Shalom(平和)と名を変え、Hashomer Israelという名を経て2005年にKeren Israelとなり、現在(2009)に至る。コフスマン師は1976年に亡くなる。イスラエルの地における最初のメシアニック運動の担い手の一人。 | ベトナム戦争(1965年2月7日〜 1975年4月30日) アフリカの年(19ヶ国が宗主国から独立した) |
1965年 | 9月26日:Soe, Timor (Mel Tari師の指導)-現在の東チモール | |
1967年 第三次中東戦争 エルサレムの再獲得 | Jesus Movement起こる。 カリスマ運動で、カソリック・カリスマ刷新運動が1967年2月Duquesne大学で始まる。 ヒッピー運動の中で生じたジーザズ・ムーブメントにおいて、イエスを救い主として受け入れるユダヤ人が多く起こされ、それが現在(2000年代)のメシアニック・ジュー指導者層を形勢している。 |
(6月5日)第三次中東戦争である六日戦争勃発。イスラエルがエルサレムを再獲得する。 Hippie Movmement (Summer of Love)起こる。Jesus Movementと同様、アメリカ、サンフランシスコのHaight Ashbury Districtで発生。 (リバイバルとヒッピー運動が同時に、同じ場所で起こっていることに注意) 欧州共同体(EC)発足。 |
1968-70年 消耗戦争 | 消耗戦争。スエズ運河を挟んだエジプトとの砲撃戦が2年間継続、同運河の運行に支障をきたす。70年に越境攻撃によりエジプト砲兵陣地を占領、停戦となる。 | |
1970年 | Messianic Movement本格化。 (2月3日)Wilmore, Kentucky (Asbury College) (7-8月)Solomon Islands (Muri Thompson師の指導) |
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1972年 | イスラエルのエルサレムに、「Netivyah ネティヴヤ」というメシアニック・コングリゲーションが、Joseph Shulam(ヨセフ・シュラム)師の指導の元設立される。この設立に、モーシェ・ベンメイル師も関わる。 | |
1973年 第四次中東戦争、第一次オイルショック | 9月:Phnom Penh, Cambodia (Todd Burke師の指導) 9月16日:Enga District, Papua New Guinea |
(1973年10月6日〜10月26日)第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争、十月戦争)。エジプトのサダト大統領がシナイ半島奪還を目的としてユダヤ教の祝日「大贖罪の日(ヨム・キプール)」にイスラエル軍に攻撃を開始。ソ連製の最新の対空兵器と対戦車ミサイルにより陸・空軍に甚大な損害を蒙り、イスラエル軍の不敗神話が崩壊する。その後アリエル・シャロン将軍が復帰、スエズ渡河作戦を実行。形勢は逆転し、17日で停戦に至る。 (10月16日)第一次オイルショック。第四次中東戦争を受けて、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げることを発表、翌日10月17日には、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、原油生産の段階的削減を決定した。 |
1974年 | 日にち不明:Africa(Lesotho)Reinhardt Bonnke師の指導。Christ for all Nations設立。 | PLOを「パレスチナ人」の唯一の代表機関とする決議がアラブ連盟首脳会議で決定 その後、アラブの圧力により、国連はPLOを「準政府組織」として認定 |
1976年 | Baruch Maoz(バルーフ・マオツ)師によって、Grace and Truth Christian Congregation(恵みと真理のクリスチャン・コングリゲーション)が設立。ユダヤ的表現を用いるものの、神学はキリスト教神学に基づき、立場は改革派バプテストである。このコングリゲーションはChristian Witness to Israel (CWI)(イスラエルへ証するクリスチャン)という団体の支援を受けて設立された。 | |
1978年 第二次オイルショック | 1978年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定し、原油価格が上昇(余談だが、4段階目の値上げについては総会で合意が形成できなかった)。第一次オイルショック並に原油価格が高騰した。 ウガンダでアミン大統領による10万人の虐殺事件が起こる |
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1979年 | Union of Messianic Jewish Congregations (UMJC) (メシアニック・ジューイッシュ・コングリゲーション連合)の創立。(米国) 3月13日:Anaheim, Los Angeles (John Wimber師の指導) |
(1979-1989年)ソ連のアフガニスタン侵攻 |
1982年 レバノン侵攻 | レバノン侵攻(ガリラヤ平和作戦)。レバノン南部からのパレスチナ人によるイスラエル北部へのテロ攻撃を鎮圧し、レバノン国内の少数派キリスト教徒保護と親イスラエル政権の樹立、平和条約締結を目指すという目的で、ベギン首相がレバノン侵攻を開始。 | |
1984年 | (1984-1985年)エチオピア系ユダヤ人「ファラシャ。複数形でファラシーム」のイスラエルへの帰還「オペレーション・モーゼズ(モーセ作戦)」が行われた。8,000人のファラシャの人々が帰還した。 | |
1986年 | International Alliance of Messianic Congregations and Synagogues(国際メシアニック・コングリゲーション及びシナゴーグ同盟)の創立。(米国) | |
1988年 | イギリスで最古のメシアニック・コングリゲーションであるB'nai Maccabim Messianic Synagogue設立。 North Solomon Islands Province, Papua
New Guinea (Jobson Misang師の指導) |
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1989年 | Henan and Anhul, China(中国でのリバイバルは現在継続中。) | |
1990年 ドイツ再統一、モンゴルが共産主義国から民主制へ移行 | モンゴルでのリバイバル開始。(現在継続中) 共産主義から民主制へ移行した同じ年にリバイバルが始まっていることに注意 |
モンゴル人民共和国からモンゴル国へ。大統領制へ移行(共産主義から民主制へ)
10月3日:ドイツ再統一。 |
1991年 ソ連崩壊、ロシア共和国設立。湾岸戦争 | ソ連崩壊により「鉄のカーテン」がなくなり、大量のロシア系ユダヤ人がイスラエルに帰還し始める。 | (12月)ソ連邦崩壊、ロシア共和国設立 (1991年1月17日〜1991年2月28日)湾岸戦争が発生。リンキングを図るイラクにより、テルアビブを標的とした短距離弾道ミサイルの攻撃を受ける。西岸地区にも被弾しパレスチナ人に大きな被害
。 (5月24日)エチオピア系ユダヤ人の帰還「オペレーション・ソロモン(ソロモン作戦)」が行われる。34時間で14,000人のユダヤ人がイスラエルに帰還する。 |
1992年 | アルゼンチンでリバイバル開始。Omar Cabrera師, Carlos Annacondia師, Hector Gimenez師, Claudio Freidzon師といった指導者達が主だって活躍。(現在継続中) | 欧州連合(EU)発足。 |
1993年 オスロ協定 | 5月2日:Brisbane, Australia (Neil Miers師の指導) | (9月13日調印)イスラエルとPLO、パレスチナ人の暫定自治の原則宣言に調印(オスロ協定)成立。PLOによるヨルダン川西岸及びガザ地区のパレスチナ人居住地の自治が始まる。 |
1994年 バチカンとイスラエルの国交樹立 | 1月20日:Toronto, Canada (John Arnott師、 Randy
Clark師の指導) 5月29日:Brompton, London (Eleanor Mumford師の指導) 8月14日:Sunderland, England (Ken Gott師の指導) |
(5月4日)ガザ・エリコ地区における自治が実施される。
ローマ教皇庁との国交が樹立される。 (10月26日) イスラエル・ヨルダン平和条約調印(ヨルダン、ユダヤ・サマリア地区の領有権を放棄。モロッコ、チュニジアがイスラエルの利益代表部を設置。) イツハク・ラビン、シモン・ペレス、アラファト、ノーベル平和賞を受賞。 (4-6月)ルワンダで大規模な虐殺が起こる。(100万人が亡くなった) |
1995年 | 1月1日:Melbourne, Florida (Randy Clark師の指導) Eitan Shishkoff(エイタン・シシコフ)師によってTent of Mercy「恵の天幕」コングリゲーションが設立される。シシコフ師は1967年の「ジーザズ・ムーブメント」でイエシュアを信じた元ヒッピーで、その後イスラエルへアリヤーし、コングリゲーションを開始した。現在5つのコングリゲーションに拡大し、イスラエルで最大のメシアニック・コングリゲーションとなっている。 |
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1996年 | The International Federation of Messianic Jews (IFMJ)(国際メシアニック・ジュー連盟)の創立。この団体は、主にスペイン、地中海沿岸に住む、スペイン語、ギリシャ語やイタリヤ語、北アフリカ言語を話す「セファルディック」と呼ばれるユダヤ人信者の組織。(米国) | |
1997年 | イギリスが香港を中国に返還する。 | |
1998年 イスラエル建国50周年 | イスラエル建国50周年。ゴラン高原の入植地拡張計画を発表 | |
1999年 シャルム・エルシェイク会議 | (9-10月)シャルム・エルシェイク会議により自治区拡大。 シャルム・エルシェイク会議では、この月から最終地位交渉に入り、一年以内で包括的協定が結ばれるという見通しが立っていた。 ポルトガルがマカオを中国に返還する。 (12月31日)ウガンダは公式に国家をキリストに捧げる声明を出した。 |
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2001年 NY同時多発テロ | Fiji revival(現在継続中) | (9月11日)アメリカ、NY、DCで同時多発テロ発生 |
2003年 | Union of Messianic Jewish Congregation (UMJC)が始めてイスラエルで総会を開く。 | (5月20日)東ティモールがインドネシアより独立 |
2004年 サンヘドリンがティベリウスで1646年ぶりに復活 | サンヘドリンが358年に解散して1646年ぶりに、イスラエルのティベリウス(ガリラヤ湖の西岸の町)に復活。メシアニック・ジューの一部は、イエシュア(イエス)はサンヘドリンで裁判を受け、十字架刑に処せられたが、同じサンヘドリンで、イエシュアを王として迎え入れる権限を持つと信じており、サンヘドリンの復活は、「終わりの時」が近いという一つの預言の成就と考えられている。 | |
2005年 | (9月)ガザの入植地を撤退 | |
2006年 レバノン戦争 | (2006年7月12日〜9月10日)レバノン戦争 ヒズボラがイスラエル軍兵士2人を拉致、報復としてヒズボラ拠点であるレバノン南部への空爆と地上軍侵攻を開始。両軍およびレバノン民間人を含め多数の死傷者を出す。 8月14日、国連安保理決議に基づき停戦が発効される。 |
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2008年 イスラエル建国60周年 | (5月8日)イスラエル建国60周年 (9月15日)リーマン・ブラザーズ破綻から世界金融恐慌へ突入 (12月27日〜2009年1月3日)ガザ攻撃(ハマスのロケット攻撃に対する) |
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参考資料(順不同) | 聖書(新改訳、新共同訳) |
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