律法その3−クリスチャンと律法−
「クリスチャンは律法をどう取り扱うか」
2004年9月10日(金)
日ノ出キリスト教会 メッセージ:行澤師

前回、トーラー、つまり律法は、いわゆる「律法主義」に代表されるような個人の自己防衛や自己正当化に使われるようなものではなく、人々に「生きる道」、「いのちの道」を教えるものであるとお話しました。

また、律法は、その目標はメシアであり、メシアによってでしかそこへ到達することができず、また、メシアへの信仰によってでしか、律法に込められた主の本当のみ心は分かりません。律法は、メシアの出現により終了し、捨てられたものではなく、霊によって完成するもの、あるいは霊によって、完成させられつつあるものなのです。

では、クリスチャンは律法をどう扱うべきなのでしょうか?

この問題は、大変重要で、本来ならばキリスト教会史を遡り、様々な主流となってきた宗派がどう律法を取り扱ってきたか語る必要があるのですが、今回は、現代メシアニック・ジューの主流の見解についてお話します。

アブラハム契約とモーセ契約:

まず、以前からお話している「アブラハム契約」と「モーセ契約」の関係を理解しないといけません。「アブラハム契約」の中心を成すものは、まず@主の選びによって一つの民族、偉大なる民族とし、土地が与えられ国家を形成する。A全世界への祝福の基となり、諸国民の父となる。(創世記17:4と22:16-18、カラテヤ3:6-9)

アブラハムの末として、イスラエル民族が誕生し、さらに、イスラエル民族を代表して、イエス・キリストが誕生しました。そして、イエス・キリストを通して全世界のクリスチャンがアブラハムの「霊の子」となりました。(創世記22:16-18。)

つまり、私たちクリスチャンを霊的に保証するものはイスラエルでありアブラハム契約なのです。イスラエルがなくなったら、私たちは信仰の土台を失ってしまいます。

「モーセ契約」を見てみましょう。「モーセ契約」は、「アブラハム契約」に組み込まれており、「アブラハム契約」を土台として「モーセ契約」は成り立っています。「モーセ契約」は、まずアブラハム契約で約束された、イスラエル民族が国家を形成するという内容を補完し、具現化しています。つまり、イスラエル国民の「憲法」です。独立した国家を形成するためには、立法権が必要です。これは国家の最高権力であり、その国がどこかに支配されていないものを保証するものです。そして、憲法はその国の顔であり特性であり、その国の憲法を見れば、その国家のアイデンティティーが分かるのです。

トーラーはイスラエルに与えられ、それは出エジプト19:5-6にあるように「聖なる国民、祭司の王国」としての国家アイデンティティーを持つようにされたのです。このような国家アイデンティティーを持つ国は、一体どこにあるでしょうか。イスラエルだけです。

イスラエルは、国民が皆祭司であり、誰のための祭司かと言いますと、それは、全世界のための祭司なのです。

国家を形成するのは、土地があり、人が必要です。これは「アブラハム契約」で約束され、そして、国家憲法であり生活の仕方については「モーセ契約」で約束され、与えられました。そして、国家の長である「王」は、ダビデによって成就しました。それをさらに発展させ、すべてを包含するのがイエス・キリストです。

つまり、イエス・キリストはイスラエル民族を代表し、イスラエルの王(ダビデの子孫)であり、トーラー(律法)もメシアであるイエスによって、成就、達成され、さらに、イエスによってイスラエルに異邦人信者が接ぎ木され、キリストは全世界の王となるのです。

しかし、使徒の時代、弟子達でさえ「イスラエルがまず@全員救われてからA全世界が救われる」と思ったのです。これは当時のユダヤ人共通の考え方でありました。ペテロでさえそう思っていました。それゆえ、割礼派(主イエスを信じるユダヤ人で、異邦人も割礼を受けてユダヤ人にならないと救いがないと主張する人々)もそう考え、異邦人に割礼を強いるようにしたのです。

しかし、主のみ心は違っていました。主は、@とAが同時進行することを望んでおられました。つまり、ユダヤ人の救いと異邦人の救いは同時であり、ユダヤ人はユダヤ人に与えられた召命を全うさせ、異邦人は異邦人のまま主への信仰に入ることを望まれました。それがコルネリオの救いの事件です。

エペソ3:6に「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続人となり、とも一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」とあります。ペテロとパウロは、イスラエルの救いと異邦人の救いが同時進行であることを経験しましたが、多くのユダヤ人はそれを理解しませんでした。もし、イスラエル民族がまず救われてから、異邦人が救われるならば、ユダヤ人が「偉く」なってしまいます。神は全世界の主であり、ユダヤ人と異邦人が相互に助け合い、一つとなることが主のみ心でした。

では、トーラーの目的についてもう少し詳細に見てみましょう。

トーラーの内容:

トーラーの目的は、まず、イスラエル国家を作り上げる。イスラエル民族の全生活に、神の性質を刻印するために、ある一定の生活の仕方を定めた。(特に主の例祭や祭儀)つまり、トーラーは救いの手段ではないということです。イスラエル民族は、なぜ奴隷から救い出されたのか、その理由がトーラーに書かれています。そして、救いがあって、その後トーラーが彼らに与えられ、彼らはそれを適用していくのです。

トーラーの内容は以下の通り:
@ 割礼規定
A 神殿規定
B 祭司規定
C レビ的祭儀
D 誓願規定
E 清浄規定(食物から住居、性生活や病気など)
F 偶像礼拝禁止規定
G 民法、刑法(司法規定)
H 例祭規定(主の例祭)
I 普遍的道徳原則「心をつくして主を愛せよ」「隣人を愛せよ」など。

ここで、@の割礼は、アブラハムが最初に行った人でした。これは、アブラハムが契約を受けたとき、その子孫がその契約を受け継ぐ者としてのしるしでありました。

では、今のメシアニック・ジューには割礼は必要あるか?これは必要なのです。彼らはイスラエル民族であるので、アブラハム契約を受け継ぐ者としてのしるしを受けなければなりません。もし彼らが主を信じる事によって、割礼を受けないのならば、アブラハム契約を無意味にしてしまい、つまるところ、「置換神学」につながってしまうのです。(イスラエルはもう不要で、クリスチャンこそ新イスラエルである、というものです。)

AからIの規定について、特に神殿にまつわる神殿規定、祭司規定、レビ的祭儀、誓願規定は今や神殿がないためにユダヤ人は守ることができませんが、これらの祭儀は、メシア(イエス・キリスト)が来られた事で、メシアニック・ジューは霊的な適用や理解を施しています。メシアニック・ジューやクリスチャンにとっても、実際キリストを知ることで、これらの祭儀はキリストの型、予表そしてキリストの役割を学ぶのに非常に有益であります。また、古代のラビ達も、メシア(ここでは主イエスというよりは、ラビが理解する「救世主」の事)が来られたら、トーラーは書き換えられる、とタルムードの書き記してあります。つまり、メシアが来られると、神殿祭儀はメシアご自身に取って代わられる、という理解が古代のラビ達にもあったのです。刑法や司法に関しては、現代イスラエルでも「ユダヤ法」という法律があり、トーラーの大部分が今でも適用されているのです。

では、我々異邦人はどう取り扱うべきなのでしょうか。

アブラハム契約の召命はイスラエル人だけに当てはまります。しかし、イエス・キリストによって、イスラエルに接ぎ木された異邦人はアブラハムの霊的子孫となりました。黙示録7:9に「見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大勢の群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立った。」とあります。ヨハネはどうしてあらゆる部族と分かったのでしょうか。それは、恐らく見た目や民族衣装(全部白でしょうが)と言葉でそうと分かったのでしょう。また、黙示録21:26に「こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」とあります。民の栄光と誉れとは、その民独自の文化です。それを携えて主に仕えるのです。

使徒行伝15章のエルサレム会議で、「律法の重荷を異邦人に負わせない」というペテロの見解が受け入れられました。これは、トーラーの@からHまでの部分を指します。しかし、Iの普遍的道徳原則、そしてノア契約(偶像に供えた汚れた物から遠ざかる、不品行、絞め殺した物、血を避ける)は異邦人も守るように言っています。Iの普遍的道徳原則は、ユダヤ人であれクリスチャンであれ、最も重要な規定です。ローマ8:3で「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はして下さった。」つまり、自己義認のために律法を守ろうとして、律法が守りきれず無力となったところで、主の霊によって、律法を全うすることができるようになった。とパウロも書いています。つまり、メシアを信じることによって、御霊によって、トーラーが要求することができるようになるということです。

では、クリスチャンはトーラーを読まなくても良いのか?

新約聖書の6割方はトーラーの引用です。トーラーを理解しないと、新約聖書はさっぱり分からなくなります。なぜ主イエスがメシアとして来られたのか、その理由もトーラーに書いてあります。そして、何が正しいのか、何が間違っているのか、それをも教えてくれるのはトーラーです。ですから、クリスチャンはトーラーをしっかり理解し学ぶべきだといえます。ただし、ユダヤ人のように@からIまで全部守らなければならないという義務からは解放されていますが、清浄規定の不品行を避ける部分や(普遍的な原則がここには含まれています。近親婚など)、Iの普遍的道徳原則は守るべきものであります。

2テモテ3:15-17には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とありよう、クリスチャンはもっと旧約聖書を学ぶ必要があります。それは、新約、旧訳全体を通して、クリスチャンが聖書を読む根拠、土台を強めてくれる物であり、より主イエスに近づくための大事な手段なのです。

雑談の質問から:

イエス様にきていない、未信者のユダヤ人は割礼を受けるべき?(ある女性の質問)

答え:ユダヤ人はイスラエル民族であるので、キリストを信じていようがいまいが、割礼を受けるべきであります。それは、イスラエルの召命を受けた者、アブラハム契約を受ける者としての、主による永遠の印だからです。パウロは逆にはっきりと、異邦人が割礼を受けるのを禁止しています。テモテは父がギリシャ人で、母がユダヤ人で、当時母がユダヤ人の場合子供はユダヤ人と認められる事(エズラ、エレミヤ書参照)、そして、ユダヤ人はキリストを信じたとしても、イスラエル民族としての召命を受けた者として証しするため、テモテに割礼を受けさせたのです。(使徒の働き16章1−3節参照)


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