律法その2−パウロの説く律法論− 「キリストは律法の目標であり、いのちの道である」 2004年8月6日(金) 日ノ出キリスト教会 メッセージ:行澤師 |
イスラエル民族は、全生活において神の存在を証しした まず、前回のメッセージのおさらいですが、律法はいのちの道であることをお話しました。イスラエルは、無条件で神によってエジプトから救い出されました。それは、アブラハムとの約束を果たされたからでした。主はイスラエル民族に土地を与え、他の国々に対して比類無き国家として建て、トーラー(律法の書)を与え、イスラエルの全存在、ライフスタイルにいたるまで、ご自分の存在を証しさせるためそのようにされました。 また主は、時間にもご自分の存在の署名をされました。主がイスラエル民族に与えた暦がそうです。まず、Yom Shabbat「安息の日」を7日に一度規定され、全イスラエルは金曜日、古代では金曜日という呼び名はありませんでしたが、7日に一度休みました。ご存じの通り、古代社会では、7日に一度休むという習慣がなかったので、ある日全イスラエルが一斉に、1日すべての仕事を休み、主を礼拝するということは、異民族にとって驚異に映りました。 また、7年ごとに、Shmitta「休耕年」がありました。これは、7年目には一切の耕しが行われないため、主は6年目に、3年分の収穫、つまり、6年目の収穫分と、休耕年である7年分、そして、8年目の分と、3倍の収穫をもたらしました。これも主による奇跡的なわざを表すものです。 そして、7かける7年たす1年の、50年目は「ヨベルの年」と呼ばれ、この年が来ると、すべての借金が帳消しとなり、売り渡された土地は元の所有者に戻り、奴隷は解放されました。これは、財産のイスラエル全体への分与、分散と、土地が異教徒に渡らないよう、各イスラエル民族がそれぞれに与えられた土地が失われないようにする配慮でありました。 このように、主は時間にご自分の署名をなさいました。有名なものは、安息日以外にも主が規定された「主の例祭」と呼ばれるもので、7つありました。安息日、過越しの祭り、初穂の祭り、七週の祭り(シャヴオート、あるいはペンテコステ)、ラッパを吹き鳴らす祭り、大贖罪日、仮庵の祭りです。(レビ記23章参照) 主は、時間だけでなく、生活の細部にいたるまで、イスラエル民族を通してご自分の存在を証しされたのです。 律法はいのちの道 律法は、以上のように主がご自分の存在を証しさせるためにあるだけでなく、イスラエル民族を通してすべての諸国民に、神の祝福が行き渡らせるようにするために、与えられました。律法の規定は、愛と憐れみを基本としています。例えば、「在留異国人を苦しめてはならない、しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。」(出エジプト22:21)など、やもめやみなしごなど、弱き者たちへの配慮、保護をはじめとする教えが数多く出てきます。律法は、神のご性質、ご性格が刻印されているのです。 律法は、イスラエル民族を含むすべての人々を、主の元に立ち返らせるためのいのちの道、義の道なのです。預言者達は、何度も何度も神に立ち返るよう、律法に立ち返るようイスラエル民族に呼びかけてきました。しかし、新約になりますと、その預言者達の呼びかけが止まってしまったかのように理解されているのが、今のキリスト教会なのではないでしょうか。実際には、洗礼者ヨハネや主イエスご自身も、過去の預言者達とまったく同じ呼びかけをしているのですが、「主を信じる者は義と認められ、律法から解放、すなわち、律法は不要になった。」という理解が今キリスト教会でなされてしまっているのです。しかし、それは主イエスの呼びかけとは異なるものでした。 では、ルカ福音書とローマ書から、パウロが説く律法についてお話しましょう。 よきサマリア人のたとえ話から ルカ10章25節から、よきサマリア人のたとえが出てきます。 「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』イエスは言われた。『律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。』すると彼は答えて言った。『心をつくし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(申命記6:5)』また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。(レビ19:18)』とあります。イエスは言われた。『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、誰のことですか。』 (ルカ10:25-29) さてここで、律法の専門家が「永遠のいのちを得るには?」と質問しています。それに対してイエスは「律法には何と書いてあるか」と尋ねておられます。律法学者は、律法を引用して賢く答えました。主は「そのとおり。それを実行しなさい。そうすれば永遠のいのちが得られる。」とお答えになりました。主は「私を信じれば義とみとめられ永遠のいのちが得られる」とはおっしゃっていません。律法を実行すると永遠のいのちが得られるとおっしゃっています。ここで主は、律法学者が律法を知りながら、実行していないことを指摘したかったのです。 永遠のいのちとは? ここで、「永遠のいのち」という言葉が出てきますが、これを、伝統的なキリスト教のとらえる「永遠のいのち」観、カトリック的な見方ではあるのですが、「死んでから行くあの世」という考えでとらえると、イエスのみ言葉が分かりにくくなります。イエスが言われる「永遠のいのち」とは、そういう死んでからいく天国だけをさすのではなく、ハヤー(生き生きとした神のいのち)つまり、この世で生きている間から、神の似姿として与えられた命を、生き生きと生きること。それが死後も継続されるということで、永遠の命は生きている今からもう開始されるものだととらえられています。 その考え方では、死して蘇るのは当たり前の事で、いのちは生きている時と死んで主の元に行ってからもその状態が継続されるものであるととらえられています。今生き生きと生きていない人が、死んで突然神の国へ行けるのでしょうか。そこには継続性がありません。永遠のいのちは、律法のみ言葉が実行できたからこそ、マイーム・ハヤー(いのちの水)が心から湧き出て来るのです。 律法学者は、主から「それを実行しなさい。そうすれば永遠のいのちが与えられる」とおっしゃった後「では誰がわたしの隣人か」と尋ねています。これは、誰が自分の隣人なのかと、自分から隣人を決めて、壁を張り巡らせています。自分の隣人はこうである:親戚、友人、近所の人々。では、外国人はどうか。これは隣人ではない。このように自分と他者を区別しています。これが、宗教がすることなのです。 しかし、神の言われる隣人とは、本当にあなたを必要としている人が隣人である、ということで、よきサマリア人のたとえを出したのです。今困り果てている人は誰であれ、その人が今まさに自分を必要としているので、その人に手をさしのべる。その時、その人が自分の隣人になるのです。当時サマリア人とユダヤ人は犬猿の仲でした。あるユダヤ人が強盗に遭い、怪我をして倒れているのを、サマリア人は、サマリアとユダヤが犬猿の仲であることを超えて助けました。目の前に困っている人がいて、宗教や人種の枠を超えて活動した代表例は、マザー・テレサでした。 (余談:マザー・テレサは、その活動ゆえに、亡くなられた時、イスラム教徒、ヒンズー教徒からも賞賛され、インド政府は彼女のために国葬をしました。) このように、律法は宗教ではありません。いのちの道なのです。つまり、目の前に自分を必要としている人がいると、その人に手をさしのべざるを得ない、心からいのちがあふれ出し、条件なしに行動してしまうものなのです。律法は、律法学者がやったように、自己義認、自己正当化のための道具として使われる事もありますが、律法を実行する事によって、いのちの水が湧き出てくるようになるのです。レビ記18:5には「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる。わたしは主である。」と書かれており、新約にたくさん引用されています。主イエスは、律法の本当の意味、目的を知らせているのです。それは、律法学者が誤ったとらえ方をしているのを暴くためでありました。 パウロの律法論 ローマ9:30-32にはこうあります。 イスラエル民族は、義の律法を追い求めました。そこには神の義が反映されていました。しかし、異邦人には律法は与えられませんでしたから、神の義を得ることはできませんでした。しかし、主イエスにより、信仰によって義をつかみました。ところが、イスラエル民族は律法が与えられながら、神の義には到達しなかったと書かれています。 これはどういうことかと言いますと、ユダヤ人達は、神の律法に対して、一つ一つの条文に対して「定義」をして、枠を決めてから、それに従って行動しました。「隣人を愛せよ」との「隣人」とはなんぞや?と、まず「隣人」を定義し、隣人という言葉に枠をもうけました。これは、法律学者が法律の条文を作ったり研究するときのやり方と一緒です。私が法律学者であるから彼らがやっていることがよく分かります。つまり、自分たちで律法を全部ふるいにかけて「定義づけ」し、その定義の範囲内で行動すれば(条件を全うしたから)義と認められると思ったのです。これが行いによる義の意味です。つまり、彼らは行いによるかのように、神の義を求めたから、神の義を得ることができなかったのです。律法を(自分達が決めた理解や枠内において)行うのではなく、神のいのちを得て、それがほとばしり出て、突き動かされて律法に書かれている通りに行動するのです。これが信仰の義です。 パウロはこう続けています。「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」(ローマ10:2-3) ユダヤ人は律法に対して熱心であり、深く研究していますし、大切にしています。しかし、自分の義を立てようとするから、神の本当の義、目的が分からなくなっているのです。 「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人は皆義と認められるのです。」(ローマ10:4) さて、ここのみ言葉について、これは私が聖書を読み、祈って理解していることをこれからお話します。皆も、自分で祈り、聖書をよく読んで、この箇所については神から直接教えて頂くようにして下さい。 私が信じる事はこうです。ここで「律法を終わらせられたので」とありますが、ギリシャ語では「テロス」で、「終わり」という意味以外に「目的地、目標」という意味があります。これは英語の「End」も同様に目標という意味があります。キリスト教会はここを「律法を終わらせられたので」と文字通り解釈したため、「律法不要論」が通ってしまったのです。しかし、新改訳の聖書の脚注を見ますと「別訳:律法の目標であり」と書いてあります。こちらの訳が正しいと私は信じます。つまり、神の義に到達する方法が、ユダヤ人達は間違っているのだとパウロは言っており、キリスト(メシア)が律法の目標そのものである!ということを言いたかったのです。ですから、キリスト(メシア)を信じるものは、律法が表す神の義に到達できるのです。 「モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いてあります。」(ローマ10:5)これは、「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる(永遠に生きる)。わたしは主である。」(レビ記18:5)からの引用です。主イエスは決して、律法を否定的にはとらえていませんでしたし、パウロもそうでした。 「しかし、信仰による義はこう言います。『あなたは心の中で、誰が点に上るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを引き下ろす事です。また、『誰が地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを死者の中から引き上げることです。」(ローマ10:6-7) ここで「しかし」から始まっています。これは、「律法を終わらせられたので」と訳してしまったため、ここを「しかし」にしないと文脈的につながらなくなるために、そう訳したものと思われます。この「しかし」と訳されているギリシャ語は「しかしながら」と「また、かつ、さらに、そして」を意味する「デ」です。 以下のように書き直すと、意味が通りやすくなるでしょう。 「キリストが律法の目標であったので、信じる人は皆義と認められるのです。モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いてあります。さらに、信仰による義はこう言います。『あなたは心の中で、誰が点に上るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを引き下ろす事です。また、『誰が地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを死者の中から引き上げることです。」(ローマ4:7) さて、ここで「誰が私たちのために天にのぼり」というくだりは、申命記の30:11-13にあるみ言葉の引用です。 「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、『だれが、私たちのために天に上り、それを取ってきて、私たちに聞かせて行わせようとするのか。』と言わなくてもよい。またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取ってきて、私たちに聞かせて行わせようとするのか。』と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行う事ができる。」 これは、律法自身が「信仰によって義に到達する」ことを預言している箇所です。パウロは、神に立ち返ると、律法を行う事は決して難しい事ではないと言っています。主への信仰によって、これらの律法を行えるようになるのです。ここで、自分の義を立てる目的で律法を行うと、成り立たなくなってしまいます。 「誰が私たちのために天にのぼり」は、わかりにくい箇所であると思います。これは、申命記のみ言葉に、パウロがキリストとつなげて語っています。つまり、キリストがすでに天から下って下さったので、自分で取りに行く必要がない。また「地の底」とローマ書にはありますが、ギリシャ語では「海の底」という語(英語のabyssの語源)が当てられており、地の(→海の)底と申命記30章13節の表現にある「海のかなた」はともに死の世界、陰府を表すことから、パウロはここで申命記30章13節の表現をパラフレーズ(要約)したものだと思われます。つまり、主がすでに死から復活されたので、自分でそこへ行って取りに行く必要がないのです、自己義認する必要はない、という意味です。パウロは、申命記のみことばをキリストに当てはめて語っています。それは、キリストは律法の目標であるからです。律法の義は、信仰によってつかむものなのです。心の中に主が生きるなら、心の中に律法が入って、律法の義がその人の中に生きるのです。律法は口にあり、心にあると申命記に書いてあります。また、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)とも書かれています。 では、何のために人に主は油注がれ、いのちを与えるのでしょうか。それは、人がそれを他者に与えるためです。人は、他者に与えると、それは実は自分に戻ってくる、得るということが分かります。日本のことわざにも「なさけは人のためならず」というのがありますが、これは「人になさけをかけると、それが巡り巡って、自分の戻ってくる」という意味で、まさしく同じ意味を持っています。 ローマ8:1-5に、特に4節に「御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」とありますが、御霊は、自己を中心とした見方ではありません。他者からの問いかけに応じるものなのです。他者は何を必要としているのか、それに対して自分はどう行動すべきかと。 神の喜ぶ事は何でしょうか。それは、律法を見れば分かります。しかし律法学者とイエス様は同じ律法の書を読んでいました。律法学者は自己義認のためにそれを使い、他者との区別、宗教化にそれを使いました。肉のまま律法を読むとそうなります。しかし、イエス様は生活の中で律法を全うされました。律法に書いてある通りに生きたのです。イエス様こそ、最高の律法解釈者であり、新約聖書こそ、最高のタルムード(旧約聖書解釈書)なのです。みことばが自分の中で生きるようにするためにデボーションがあります。デボーションは、信仰によって、律法を行うためにあるのです。 次回は律法について3回目、クリスチャンにとっての律法についてお話します。具体的に、律法の中で、クリスチャンに当てはまるもの、当てはまらないものがありますので、それらをお話したいと思います。 (余談から) 答え:律法の教えは、メシア(キリスト)によらなければ、目標を到達することができないのです。人間の罪そのものの問題は、人間の手では解決できないのです。あれほど多くの生け贄を年々イスラエル民族は捧げてきましたし、今でも毎年大贖罪日には、罪の許しについてユダヤ人は祈っていますが、メシアが来て初めて罪の根本問題が解決されたのです。それが「肉によって無力となったため、律法にはできない」という意味です。 質問:律法によって、律法に死んだ(ローマ7章)とありますが、これはどういう意味ですか。 答え:本当に律法が目指すもの(神の義の到達)に対して、律法(ユダヤ教としての伝統、文化だけでは到達しえない事)に死んだ、という事を表します。(注:ここで、ユダヤ教やその伝統、文化が悪いということを意味するのではなりません。キリスト教も、その文化や伝統を守ることによって、神の義に到達するかといいますと、決してそうでないのと同じです。ユダヤ人であろうとクリスチャンであろうと、いける神との関わりがないと、神の義には到達できません。) 律法学者もそうですが、クリスチャンもみ言葉に対して「定量的」に捉える傾向がありますね。例えば、レプタ銅貨を捧げた貧しいやもめの話(ルカ21:1-4)がありますが、律法学者の見方だと、お金持ちが投げ入れたお金の方が多く、より神に対して多く捧げたと思いますが、神は、「全財産を投げ入れた」このやもめの捧げものを賞賛しました。「これだけ捧げたら、神様は喜んで下さるだろう」とか「あの人はあれだけ捧げて、自分はこれだけしか捧げることができなかった。」といって、他者と比較して自己満足に陥ったり、あるいは卑下してしまったりします。これは罪人の考える事です。クリスチャンの中にも大勢います。そうでなく、神が喜ばれる事を通して見たら、金額は問題ないことが分かるでしょう。このやもめは、神に対して感謝がほとばしり、全財産をささげたくなるほどの気持ちになっていた。ということです。彼女は、全財産を捧げた、という意識はないでしょう。その時クリスチャンは「ええ!全財産を捧げる?そりゃ無理!」とまたここで定量的に考えます。律法の義を全うすることは、律法の「定義付け」だの「定量的に考える」こととは無縁で、神のいのちにあふれると、律法が自分が意識しない間に行ってしまうものなのです。
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