律法論その1
−なぜ神は律法をイスラエルに与えられたのか−
「律法は愛と恵みに満ちている」
2004年7月9日(金)
日ノ出キリスト教会 メッセージ:行澤師

律法とは:

これから3回に渡り、「律法」についてお話したいと思います。「律法」ほど誤解され、謝った適用が成されているものはありません。「律法」に対する理解や解釈は、メシアニック・ジューの中にあっても、様々な意見がありますので、私が話す内容は、そのうちの一つであり、絶対にこれが正しい、というものではない、という事を前提に話を聞いて頂きたいと思います。

「律法」という言葉による誤解は、それは、日本語の「律法」という言葉、訳が悪いのかもしれません。「律法」の「律」とは、古代の律令制度でいう「律」で、主に「罰則」の法令に使われる言葉であるからです。

では、ギリシャ語ではどうでしょうか。ギリシャ語で律法は「ノモス」といい、それは「Law」つまり、法律や法則(万有引力の法則の「法則」)という意味があります。

ヘブライ語、元の言葉では「律法」は「トーラー」と言います。「トーラー」はいくつかの意味があり、広義の意味は「旧約聖書全体」を指します。しかし、もちろんのことながら、ユダヤ人は「旧約聖書」とは言いません。ユダヤ人は旧約聖書の事を「タナッハ」といい、それは、「トーラー(モーセ五書)」、「ネヴィイーム(預言書)」そして「ケトゥヴィーム(諸書)」の3つのヘブライ語の頭文字(タヴ(T)、ヌン(N)、ヘット(H)を合わせて「タナッハTNH(ch) - Tanach」と呼び、それはクリスチャンが使用している旧約聖書に当たります。

もっと一般的な「トーラー」の意味は、「律法の書」つまりモーセ五書を指します。これは創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記の五書を指します。この五書は、法が全面に出ている書ではなく、天地創造やアブラハムの物語、出エジプトの物語など、歴史などが多く書かれています。その中で、法にあたる文書もあり、トーラーのもう一つの意味、つまり「戒め」や「命令」という意味がそれに当たります。

しかし、最もトーラーの本質を言い表している意味は「教え、導き、そして、道」です。ですから、新約聖書で「律法」という文字が出てきたら、その意味について注意する必要があるのです。クリスチャンは「命令」という意味だけでとらえており、それではトーラーが伝えようとするメッセージのほんの一部分にしかならないからです。つまり、クリスチャンは「律法の書」に対するイメージを、変えなくてはなりません。

よく、「律法主義」という言葉がクリスチャンの間で使われますが、英語では「legalism-法律主義」という表現を使います。こちらの方が「律法主義」の意味をより正しく表しているのかもしれません。しかし「律法主義」という言葉ですが、実際にこれも変な使い方であり、昔の教会では、例えば「ネクタイを着用しなければならない」とか言われると、それは「律法主義」であると声をあげますが、実際「律法の書」に「ネクタイを着用しなければならない」という命令は書いていないわけです。しかし、そういう意味でクリスチャンは使っているので、誤解を招きやすいのが現実です。

律法は愛:

しかし、「律法」は、愛であることを聞くと、驚かれる人があるかもしれません。「トーラーは愛」とか「律法の書は愛である」と表現すると、あまり抵抗はないかもしれませんが、「律法は愛に根付いている」というと、びっくりされると思います。事実、律法の書には、愛と恵みに満ちた話や命令が数多く出てきます。

例えば、レビ記19:18には「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」と書いてありますし、「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても(ここが重要!)必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」(出エジプト記23:4-5)また「在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らが私に向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。」(出エジプト22:21-23)このように、律法は愛を行うよう命令しています。(これが本当の律法主義

イエスご自身、よく律法の書から引用しています。例えば、3つの試み(マタイ4章)の時、どこから引用したかと言いますと:

1) サタンが近づき「石がパンになるように」命じたところ、主イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(申命記8:3)
2) また、サタンは主を神殿のてっぺんに連れて行き、飛び降りろと命じる。その時「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。」と、詩篇91:11-12を引用しています。(サタンも聖書を引用するので気をつけないといけません。)すると主イエスは「あなたの神である主を試みてはならない。」(申命記6:16)
3) そして、サタンは自分を拝ませようとすると、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」(申命記6:13)と主は引用された。

この通り、新約聖書は、律法からの引用が大多数を占めるのです。ですから、律法なくして新約はないのです。

律法の目的:

では、律法、トーラーの本質に迫ってみましょう。そもそも、トーラーはなぜ作られ、イスラエル人に手渡されたのでしょうか。

トーラーは、天地創造、神のご性質の説明、人の創造とその歴史の始まり、堕落、アブラハムの召命と続き、それは、発展し引き延ばされ、最終目標は主イエス・キリストの購い、死と復活に続く土台となるものです。それについては、ローマ書で詳細に説明されているので、別の機会に説明します。

トーラーは、まず前半のクライマックスに、アブラハムの召命があります。次のクライマックスは、モーセでしょう。では、ここでモーセ契約についてお話していきます。

クリスチャンは、律法は救いと恵みに対立するものと捉えますが、律法の書では、いかに神が無条件に人々を救い出したか、何度も語られています。神はまず無条件にイスラエルをエジプトから救い出しています。彼らがエジプトで、神を喜ばす事をしたでしょうか。彼らはエジプトの奴隷である時、偶像礼拝に耽っていましたし、日々文句を口にしていました。しかし、神は彼らを救い出したのです。それは、「先祖アブラハムとの約束」ゆえに救い出したのです。

信仰はヘブライ語で「エムナー」といい、信頼、つまり、時間をかけて築き上げる関係を表します。前回の大阪定例会でお話したアブラハムの信仰も、彼は神を信じ、それゆえ義と認められた直後、神の約束に対して笑い、疑問に思い、主に反する失敗を何度も繰り返しています。しかし、神は何度も根気よくアブラハムに対して約束を述べ、アブラハムは何度も失敗しつつも、最後には一人子イサクを主に捧げるほどの、神との信頼関係を築き上げたのです。

クリスチャンは、信仰を頭で、知的に捉えがちで、よく「信条」を様々な教団は口にしています。しかし、信仰とは神との時間をかけた信頼であり、「関係」であるのです。

アブラハムに与えられた約束は次の二つです:
1)「多くの国民の父」となる。ここで、多くの国民はヘブライ語で「ゴイーム」と言います。
2)「カナン全土」を永遠に与えられる。これはイスラエルの民に与えられるものです。

この二つめの土地に関しては、エジプトにいるイスラエルの民を出さないと達成されない約束です。

そして神はアブラハムの子孫達を「祝福の基(創世記12:2)とし、大いなる国民とすると約束しています。

ヘブライ語で、イスラエル以外の諸国民の事を「ゴイーム(単数形はゴイ)」と表現し、イスラエルについては「アミーム(単数形はアム)」と表現しています。ハ・アム(ハは定冠詞)はイスラエルを指します。しかし、不思議な事に、イスラエルを大いなる国民にする、という箇所で「ゴイ」という表現を使っているところが、神の不思議な摂理であり真理であります。イスラエルもゴイの一つであり、エジプトでは在留異国人であったのを覚えなさいと伝えているかのようです。

そして、イスラエル民族にトーラーが与えられました。それは、イスラエルを神は取り分け、その全生活をかけて神を証しする民族とするためでした。これを実現させるために、神は無条件にイスラエル人をエジプトから出させたのです。これは神の一方的な恵みであります。たとえイスラエル人が道をはずした言動があっても、神はアブラハムとの約束を守り通したのです。ヘブライ語に「ヘセット」(恵み)という言葉がありますが、これは、「約束にどこまでも忠実」という意味があります。

しかし、イスラエル人は神との約束を破ってしまいます。モーセがホレブ山に登っている間、金の子牛像を造って拝んでしまいます。怒られる主に対してモーセ与えられた石の板を割り、そして必死に取りなしをします。その時に「アブラハムとの約束を覚えて下さい」という嘆願によって、主の懲罰は最小限に抑えられます。(とはいうものの、三千人の民が死んでしまいますが。)そして、再び石の板を切り出し、そこに主はみことばを書かれました。その後、主はこう仰せられます。「主、主は憐れみ深く、情け深い、怒るにおそく、恵みとまことに富み(略)」(出エジプト記34:6)ここで言う「恵みとまこと」はヘブライ語で「ヘセット・ヴェ・エメット」と言います。それは、相手が不安定であっても、約束を何としてでも守る、という意味が込められています。

ホセア書のホセアと、その妻ゴメルとの関係は、神とイスラエルの関係を表しています。何度も他の男の元に走っていってしまい、最後には奴隷として売られてしまった妻を、夫であるホセアは買い取り、引き取ります。そのような神の一方的な憐れみを律法では語っているのです。

トーラーの作られた目的を整理してみましょう。
1) イスラエルを無条件に救い出し、(救いがまずある)
2) イスラエルをカナンの地に住まわせる。
3) イスラエルを偉大なる国家とするために、すべての生活において神を証しする民族とする。つまり、他の民族と取り分ける、聖別する(カディッシュ)。

これがトーラー、律法の目的なのです。

例えば安息日。当時古代社会では、1週間の打ち1日を休みとする民族は皆無で、多くの民族は絶え間ない労働ゆえにくたびれはてて死んで行きました。その中で、一つの国民が同じ日に一斉に休み、神を拝めばそれは大変な注目を浴びたのです。また、清浄規定があります。それは、あるメシアニック・ジューの意見によりますと「これは、世界に対して、神を証しするためのサインである」とおっしゃっていたそうです。中には、清浄規定を確かに古代社会で守ることによって、病気を防ぎ健康を維持させるのに役に立つものもありますが、それとは無関係ではないかというものもあり、単なる健康維持のための命令ではなく、それは神を証しするサインであるのではないか、と捉える意見があるようです。

律法は、The Way of Lifeである:

トーラーはこのように、神を証しする「The Way of Life」生活の道なのです。これをイスラエルが実行する事により、他と比べることのできないGreat Nation、偉大なる国として立ち、神を証しするのです。つまり、トーラーを守ることによって救われるものではなく(実際イスラエルはエジプトから「救い出されて」から、国家としてのThe Way of Lifeに入っていきました。)神を証しするための規定や方法、応用の仕方であったのです。

主イエスが律法学者に対して激しく怒られたのは、律法学者がトーラーの本質を歪めてしまい、これを守らないと罰があるなど、脅しの道具としてしまった事が原因でした。主イエスは「いのちの道」とも呼ばれました。つまり、トーラー、律法も「いのちの道」であります。イスラエルの民は神との約束を破っても破っても、契約は取り消されず神は忠実であられました。しかしイスラエルの民は破った罰、報いは当然受けました。

救いとは、意味があって神はなされるのであって、神はランダムに人を救われない。救いには必ず目的があるのです。トーラーは人が救われた後、その人を祝福の基にしたいがため、神を証しする者とするために、与えられるものなのです。

神は人が不忠実であっても、神は約束を絶対にお破りにならないので、神を信じた人はある意味大きくゆったり構えることができるのではと思います。主は約束を取り去らないので、自分が過ちを犯したら、安心して(?)主の裁きにあうのがいいでしょう。そして私達はいつでも悔い改め、主の元に立ち返ることができるのです。

(雑談から)
カルト化というのは、人が勝手にルールを作るところから始まります。教会がイスラエルから離れると、トーラーの本質を曲解すると、信仰を支える土台からどんどん離れ、ついには自分勝手な教義、神学を生み出します。これがカルトの始まりです。よく教会で「恵み」、「恵み」と叫ばれますが、恵みの本質や意味、主が与える恵みの意味を理解しないまま、勝手気ままにできるというのを恵みと勘違いしたために、逆にがんじがらめになり、人々から喜びが失われ、ついには教会から人が離れていくという現象が起こっていますが、これこそ置換神学のもたらすのろいに他なりません。

次回はローマ書からお話します。

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