「One Torah理論に対する批判的検討」
シオンの喜び−イスラエルのためのとりなしと宣教のビジョン
運営委員長
行澤 一人
■1 はじめに
メシアニック・ジュイッシュ運動が1970年代にアメリカを中心に爆発的に展開されて以来、今日で、ほぼ40年の年月が経とうとしている。その意義と貢献はひとりユダヤ人伝道の領域に留まらず、広くキリスト教会全体に対しても及んでいる。しかし、40年という歳月を経て、メシアニック・ジュイッシュ運動は成熟と共に、いくつかの無視できないチャレンジをキリスト教会との関係で受けてきた。論点はいくつかあるが、その中でも特に重要であり、かつ今日ますます焦点となりつつある課題は、「律法(トーラー)とクリスチャンの関係」である。
■2 キリスト教神学とメシアニック神学
カトリック神学、古典的な宗教改革【特にカルヴァン神学(ウエストミンスター信仰信条)】、ディスペンセーション(時代主義)神学というそれぞれに固有の視点と相違点を持つ代表的なキリスト教的律法論に共通するのは、そこで展開される律法に関わる規範理論がキリスト信者に等しく同様に適用されるということであり、それはユダヤ人信者に対しても異なるところはない。たとえば、カルヴァン神学においては「(道徳律法を除く)祭儀律法はキリストにおいて廃棄された」とされ、ディスペンセーション神学においては「律法は聖霊降臨以降、完全に無効とされ、新しい聖霊時代に入った」という律法論が立てられた。そうするとそれはユダヤ人のキリスト信者にも同様に適用されるので、もはやユダヤ人でキリストを信じた者は、ユダヤ人としての律法(トーラー)に忠実に従おうとすることそれ自体が、否定的評価を受けることになる。
【メシアニック・ジューによる律法論】
これに対して、メシアニック・ジュイッシュ運動による主流的な律法論は、大要、次のようなものである。すなわち、律法(トーラー)はまずもちろんメシア・イエスの御業(みわざ)によって完成され、その解釈もより本質的な意味において純化・深化せられた(renewalされた)ので、ユダヤ人信者であれ、異邦人信者であれ、共通の「メシア(キリスト)の律法(トーラー)」と呼ぶべき規範の下にあるのは疑いない。その限りで、ユダヤ人信者が、モーセによる「シナイ契約」の全体系及びこれに基づく長年の慣習・伝統(口伝律法)をそのまま承継するべきではない。しかし、他面、シナイ契約は、「アブラハムの子孫からなるユニークな一つの民族を世界から聖別し、この民族を通して全世界に対するご自身の御旨を遂行する」という神のアブラハムに対する契約の一部を実現するために結ばれたものであり、このアブラハム契約の「ユダヤ民族を形成することに向けられた約束」に対応するシナイ契約・トーラーの民族的要素は、メシア・イエスの十字架の御業に調和する限りで、かつその範囲において、なお「永遠の召命」として有効性を保っている。もとより、アブラハム契約には、全世界・諸国民が信仰によって神の民とされ、アブラハムに約束された神の国が諸国民にも共有され、そして全世界に証しされるという普遍的な召命も含まれており、これに対応するトーラーの普遍的・本質的要素は、メシア・イエスにあって、ユダヤ人信者のみならず、すべての諸国民信者にも適用されることになる。この点においては「メシアのトーラー」は「モーセのトーラー」と内容的な相違があるわけではないのである。
こうして、メシアニック・ジューは、メシア・イエスにあってユダヤ人として生きていくということを自己の召命として捉えるのであり、これを実現するために必要なトーラーの要素は信仰においてなお履践していく。しかし、同時にこれは民族的な召命に対応するトーラーの要素であり、諸国民からなる神の民には本来向けられた規範ではないので、諸国民信者がこれに忠実に生きる必要は全くない。むしろ、神は福音宣教の優位の下に、諸国民信者がそれぞれ固有の文化を用いて伝道することを奨励していると考えるのである。このことを使徒的権威の下に定めたのが使徒行伝15章のエルサレム会議であったと解する。
【隔ての壁を再構築する?】
このような主流に位置するメシアニック・ジューの律法論は、従来から、それぞれのキリスト教神学における固有の視点に基づく種々の批判を受けてきたが、それらの批判の中でも共通するのは、「メシアニック・ジューは、同じキリストの体の中に適用される規範の異なる二種類の人々を設けて、ユダヤ人と諸国民の間に再び壁を設けようとしている」というものであろう。これに対して、メシアニック・ジューの側では、「それは、同じ一つからだの中の、全く対等な地位にある民の間の、召命と賜物の相違であり、神の民の多様性の中で理解されるべきものだ」と答えてきた。著者は、このメシアニック・ジューの答弁の中に十分な聖書的な根拠と健全な霊性を認めるものである。
■3 メシアニック神学と「One Torah(律法は一つ)論」
ところが、近年、皮肉なことにメシアニック・ジュイッシュ運動の中から、主流派メシアニック神学の律法論に対して反論を唱える神学思潮が現れてきた。それが「One Torah論」である。
一言で言えば、「One Torah論」は、今や、諸国民信者もアブラハムの霊的子孫となり、「イスラエル」の「市民」としてユダヤ人と全く同じ地位と資格で「神の民」とされたのだから、トーラーに従って「神の民」として生きる責任と特権についても、ユダヤ人信者と諸国民信者を区別するべきではない、というものである。この様な論陣を張る代表的論者の一人としてTim Hegg氏がいる。
【Tim Hegg氏の見解】
彼は、その論文‘Is the Torah Only for Jews?’(2003年2月)の中で、出エジプトの時期から一貫してイスラエルには、「在留異国人」「寄留者」と呼ばれる非ユダヤ人が含まれてきており、もし彼らがイスラエル人と共に住み、イスラエルの神と律法(トーラー)を受け入れたならば、「契約の民」としてイスラエル人と同じ資格と責任を神と信仰共同体に対して有することが認められてきた、と主張する。そして割礼を伴う改宗手続を経て「ユダヤ人になる」という規則(ハラハー)が設けられたのは、少なくとも第二神殿時代後期以降のラビ的ユダヤ教の展開の中においてであり、旧約聖書(タナッハ)本来の立場によれば、そのような改宗手続を経ない外国人であっても、ユダヤ人と同じくトーラーに従って生きる権利と責任を持つことができた、というのである。このような視点から、Hegg氏は、せっかく今やキリストを信じてイスラエルの民に加えられた諸国民信者に対してトーラーの適用を制限し、トーラーはユダヤ人として生きることにのみ関わる特別な責任であるとする主流的メシアニック・ジューの立場は、むしろラビ的ユダヤ教への回帰に他ならないと批判するのである。
このような論について、言うべきことは種々あるが、最も重要なことは、氏の論が奇妙な論理のすり替えになっているということである。メシアニック・ジューの見解によっても、諸国民キリスト信者が、自らの信仰の証しとしてユダヤ人の兄弟たちと共に過越や仮庵の例祭を祝ったり、安息日(シャバット)の食卓を囲むことには何の制約も課せられないばかりか、むしろそれこそ初代教会のあり方であったと理解される。また、長いユダヤ人の歴史や伝統を諸国民キリスト信者が謙遜に学び、これに敬意を表することはむしろ喜ばしいこととされる。そのような意味では、トーラーに学び、また実践することの「特権と祝福」は何ら諸国民キリスト信者には制限されていないし、そうするのに改宗手続を経てユダヤ人になる必要もない。問題は、使徒行伝15章で論じられたまさにそのことであり、「最終的に諸国民キリスト信者もユダヤ人と同じ程度にトーラーに対して従う責任を負わなければならないのか」というトーラーの規範的効力に関わることなのである。残念ながら、Hegg氏は前掲論文において使徒行伝15章に関する論をまともに展開していない。
【Ariel Berkowitz氏の見解】
(1)使徒行伝15章の解釈
そこで、「One Torah論」を強力に推進するもう一人の論者であるAriel Berkowitz氏の著書から、この問題に対する考察を取り上げてみよう。Berkowitz氏は非ユダヤ人の律法(トーラー)に対する関係は、「一種の許容及び励まし」であるとして、次のように言う。「従って、使徒行伝15章19節〜21節において、食卓の交わりのためのトーラーに基づく四つの指示を描くことによって、賢明かつ愛すべき長老たちは、以下のようなメッセージを異邦人信者らに対して伝えているのである。『あなた方はメシアの体にあってわれわれと平等である。われわれの教えはあなた方の教えである。しかし、あなた方が聖書、もしくはトーラーの全体を理解できるようになるには時間が必要であろう。だから、今のところは、あなた方とユダヤ人の兄弟姉妹との間の交わりに最も良く役立つことを学ぶだけでよい。あなた方は段々と時間と共に、神と共に歩むということがどういうことかをより良く学んでいくだろう。そのために、我々は、よく学び、訓練されたトーラーの教師を派遣するだろう。』」(‘Torah
Rediscovered’【FFOZ,1996】p72)。さらに、使徒行伝15章21節についても、「もしこれを異邦人信者らが継続的にトーラーを学び続けることへの長老たちの励ましと理解しないならば、同句はほとんど意味をなさないように思われる。」(‘Torah
Rediscovered’【FFOZ】p72)と言う。
しかし、このような解釈は、使徒行伝15章でのエルサレム会議決定の本質を正しく理解するものとは思えない。まず、エルサレム会議決定の本質は、割礼派の人々による「異邦人(もちろん信者)にも割礼を受けさせ(@)、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである(A)」(使徒行伝15章5節)という提議に対して、@キリストを信じて救われた諸国民信者は、それ以上割礼を受けてユダヤ人になる必要はないこと、A諸国民信者は、ユダヤ人と同様の仕方でモーセの律法(トーラー)全体を忠実に履行する必要のないことを決定することであった。それはユダヤ的な意味における法的な決定(ハラハー)であり、かつ諸国民信者に対する「免責決定」であったのであり、Berkowitz氏の言うような「執行猶予決定」ではなかった。また、使徒行伝15章21節についても、これは、諸国民信者が同決定に付された四つの禁止命令の実践に際して、解釈もしくは具体的な運用上の問題に直面したときには、その地域のユダヤ人共同体に「照会」(reference)すれば良いという意味で解釈を補充する規定であると解すれば十分である。さらに、使徒行伝15章23節以下で、エルサレム会議の決定内容を記した裁定文書には、「…次のぜひ必要なことのほかは、あなた方にその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。」とあるが、この「重荷」と訳されているのは、ギリシャ語で「尊重されるべきことの主張・要求」を意味するBarosという言葉であり、これにより明らかに同決定が法的な意味で「終結的(conclusive)」なものであることが示されている。
(2)聖なる許可?
さらにBerkowitz氏は、安息日に始まる例祭を‘mo’adim’(「指定された面会時間」を意味するヘブル語)とし、それを信者の継続的な霊的成長にとって必要なライフスタイルであるとした上で、「こうしてmo’adimのサイクルを通して全ての非ユダヤ人信者らにも、イスラエルと共に聖なる相続財産における自己の持分を握ることに対する許可を神は与えておられる…(そうなら)トーラーの他の教えに従うことについても同様に神は聖なる許可を与えておられるということが言えないだろうか。」(‘Take
Hold’【FFOZ,1998】p59)と言うのである。しかし、この見解は、「聖なる許可」という概念を持ち出すことで、律法(トーラー)に従って忠実に歩むことを「義務」や「責任」というニュアンスから巧妙に避難させつつ、結局、そのことに対する心理的強制作用を及ぼしていると判断せざるを得ない。なぜなら、Aという状態が実は神の本当の御旨であると聞かされて、Bというそれより未熟な状態にあるとされる真の信者が、法的義務でないからといってAという状態になることに駆り立てられないわけがないからである。
■4 最後に
以上、律法論に関して筆者がより大切だと思うのは、私たちはあくまでキリストご自身に着目し、御霊による内的変革(ガラテヤ6;15)と福音を証しすること(Tコリント9;19−23)を最も高い目標に置くという「優先順位」を誤らないことである。これさえあれば、律法の本質的な要求は、私たち自身のうちに全うされ(ローマ8;4)、実を結んでいく(ガラテヤ5;22−23)からだ。この点、「One Torah論」は、私たち諸国民信者がユダヤ人と同じように律法(トーラー)を自己の神に対する責任として引き受けることへと誘導するため、ガラテヤ5;3の警告をもう一度パウロから聞かなければならない。そして、ラビ的なユダヤ教が陥ったように、結局、律法(トーラー)の字句の釈義と義路の迷宮に迷い込み、かえって律法(トーラー)の真の要求を見失ってしまう恐れなしとしない。
シオンの喜びのホームページはこちら
目次に戻る