メシアニック・ジューの出現の意義 |
この運動について語る場合、ユダヤ人だけが受け継いでいる民族的な約束について、どうしても語らなければなりません。しかし、もしユダヤ人だけが特別な民族的使命を与えられているなら、それは「えこひいき」ではないのか、という疑問を、多くの方が持たれると思います。 神は確かにユダヤ人を愛しておられます。しかし、イスラエル民族に対する神の愛は、諸国民に神の愛を知らせるための「手段」であるという側面を忘れてはいけません。 99匹の羊を置いて1匹の迷い出た羊を探すたとえ話は「1匹であっても神はお見捨てにならない」という意味であって、神が99匹を無視されるという意味ではありません。その迷った1匹は、神の愛を他の羊たちに示す役割(召命)を与えられたと考えられます。 ユダヤ人はこの迷える羊です。ユダヤ人に対する神の御業は、ユダヤ人自身のためであると同時に、諸国民に見せるための神の「パフォーマンス」なのです。 ユダヤ人の約束の地への帰還を語る、イスラエル回復預言の特徴の一つは、諸国民がそれを見て主を知る(エゼキエル36,39章)ということです。神がイスラエルに対する約束を成就されつつあるのは、イスラエルに対するものであると同時に、諸国民(異邦人)である私たちのためでもあります。 以下の論旨をお読みになって「神が愛されているのはユダヤ人だけ」という誤解だけは持っていただかないように、お願い致します。 さて、多くのメシアニック・ジューが論じているように、メシアニック運動は、「ユダヤ人としての民族性を完成させる」という意味があります。そこで、メシアニック運動の背景として、ユダヤ人の離散と現代イスラエル国家の建国(再建)の意義について、最初に論じてみたいと思います。 ■■■■■■■■ 1 メシアニック運動を論じる前に ■■■■■■■■ 18世紀のある日、プロイセンのフリードリヒ大王が、宮廷の人々に「神の存在を証明できるか」と質問しました。大王は啓蒙主義を推進した君主で、当時は人間の科学技術の急速な進歩が始まった時代でした。次々に新しい発明・発見がなされ、神を無視する世俗主義が力を得ていました。神の存在証明について質問した王は、おそらく「それは不可能です」という答えを期待していたのではないでしょうか。 しかし、ある牧師がたった一言で王を納得させました。その答えとは「ユダヤ人をご覧下さい」でした。神の言葉のとおり、ユダヤ人が世界中に離散していたからです。 ●ユダヤ人の離散は預言の成就 ユダヤ民族が頑迷になり、罰を加えられて世界中に離散させられ、迫害を受けることは、申命記28章などに何度も預言されています。(ただし、このことは、ユダヤ人を迫害したクリスチャンが正しかったという論証にはなりません。イザヤ10章にもあるように、神は悪人を罰するのに悪人を用いられるからです。)実際、ユダヤ人たちに正当な罰が加えられたことは、旧約聖書に記された神の言葉が真理であることの証明です。 ユダヤ人の苦難は、救いが確かであることの証拠だという思想は、ユダヤ教の中にも見られます。破壊されたエルサレムを見た高名なラビのアキバ(50-135年)は、笑い出しました。いぶかる弟子たちに、アキバは「シオンは、あなたがたのために、畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる」(ミカ3:12)という預言を引用し、それが成就することはイスラエル回復預言もまた成就する証拠だと説きました。(タルムード、マコット編24b) ユダヤ人が罰を受け、文字どおりに世界中に離散させられ、それでも民族性を失わなかったことは、世界史における奇跡の一つであり、神の約束が必ず成就することの証拠の一つです。それは神が実際に存在するお方であり、私たち異邦人が受けた救いも確実だという証拠でもあるのです。 ●現代イスラエル国家の建国は預言の成就 70年にエルサレムが陥落し、ユダヤ人の離散(ディアスポラ)が始まりました。ユダヤ人たちは再起をかけ再び反乱を起こしましたが135年にエルサレムは再び陥落。ローマは全てのユダヤ人を追い出して、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、「ユダヤ」と呼ばれていた地域を、ペリシテ人の名にちなんで「パレスチナ」と改称したのです。ユダヤ人と約束の地を完全に切り離すためでした。 それから1800余年、ユダヤ人が再び約束の地に帰ることなど、絶対にあり得ないと誰もが考えていました。しかし、ヘルツェルらの働きで、イスラエルは結局、建国に成功したのです。世界史上、国を失い離散した民が国を再建した例は他にありません。また、死語となっていたヘブライ語も、ベンエフダなどの働きで復興されました。一度、死語となり、何百年も日常語としては使われなかった言葉が再び使われるようになった例も、他にありません。これは、言語学上の奇跡だと言われています。 さらに驚くべきことは、これらの奇跡が起こることが、二千数百年も前に書かれた聖書にはっきりと予告されていたということです。それは、ユダヤ人が不信仰の罰を受けて世界に離散するという預言以上に、神の約束の確かさを示す証拠だと言わねばなりません。 ●現代イスラエルは約束の成就でないとする見解 現代イスラエル国家が不信仰であり、性的にも道徳的にも退廃しており、パレスチナ人を苦しめているとして、現代イスラエルは聖書預言の成就ではないとする見解があります。メシアを受け入れていない現代イスラエルが、少なくとも信仰的に正しくないことは論を待ちません。もともと現代イスラエルを建国したシオニストたちは社会主義(無神論)で神にも約束にも興味は無く、ウガンダに国を作ろうと真剣に考えていたのです。 しかし、様々な経緯で現代イスラエル国家は建国されました。ですから、ユダヤ教の中には、クリスチャンの中でイスラエル建国に反対する人々とほとんど同じ論旨で「これは不信仰者が建てた国で、神が建てた国ではない」と主張する人々がいます。 しかし、預言の成就は、それを成就させる人間の義には依存しないという点にも注意が必要です。新約聖書で旧約聖書の預言の成就だとされる事件の多くは、不信仰な人々の手で成就しました。(例:ローマ兵がイエスの衣をくじ引きにしたこと等) さらに、旧約聖書のイスラエル回復預言を見ると、悔い改めて後に帰国を許されるというタイプの預言(レビ26章など)と、悔い改めないが神の全能性によって強制的に帰国させるという預言(エゼキエル36章など)があります。後者の預言では、イスラエルの地において彼らが罪から清められるという順序になっているのです。ですから、現在のイスラエルが不信仰であっても、聖書の預言と矛盾するわけではありません。 ■■■■■■■■■ 2 メシアニック・ジューの出現 ■■■■■■■■■■ 以上、ユダヤ人の離散と約束の地への帰還が預言の成就であるという点について議論してきました。しかし、全てのイスラエル帰還預言は、実際的な土地への回復と、信仰的・霊的回復が必ずセットになって語られています。 実際的な約束の地への帰還は、最近になって過半数のユダヤ人がイスラエルに帰還したと言われていることから、すでに成就したか、あるいは最終段階に来ていると言えます。 そして、霊的回復もまた、成就の兆しが見えてきました。それが、メシアニック運動なのです。 ●奇跡的な現象 長年にわたってクリスチャンがユダヤ人を迫害し、ユダヤ教もそれに応じてキリスト教を敵視する教えを説いてきたため、ユダヤ人がイエスを信じることは、絶対にあり得ないことと考えられる時代が2千年近くも続いてきました。 こうした背景の中で起こってきたのがメシアニック運動です。この運動が始まったのは19世紀末に遡りますが、運動が勢いを得たのは1960年代になってからです。超自然的な神からの啓示によってイエス・キリストを受け入れるユダヤ人が、各地に出現しました。彼らの多くは「イエスを信じたユダヤ人など、世界で自分だけだろう」と考えていました。しかし、ほどなく他にもイエスを信じたユダヤ人がいることを知り、彼らは少しずつ集まって行き、大きな運動になりました。メシアニック運動は、人間の始めた運動ではありません。聖霊によって起こされた運動なのです。 ユダヤ人の現実的な帰還と合わせて、このように特異な霊的運動が発生してきたことは、まさに奇跡的な神の業と言わねばなりません。 メシアニック運動は、「預言の成就」という意味で、現代イスラエルの建国と同様の意味がありますが、それ以上に深い意義を持っています。 ユダヤ人がイエス・キリストを信じる運動を起こしていることには、神の印という意味で、世界宣教の中で一民族・一国家に救いが及んでいるという以上の意味があると言えるでしょう。 1)メシア(キリスト)の体である教会の完成 メシアの体はユダヤ人と異邦人からなる「新しいひとりの人」(エペソ2:15)であるとパウロは書いていますが、近年までユダヤ人の信徒はほとんど存在しませんでした。これは完全な状態ではありません。イエスを信じるユダヤ人の出現は、キリストの体に欠けていた重要な部分が復興されることなのです。 長男であるユダヤ人が回復して、はじめて「兄弟たちが共に座する」(詩篇133)という祝福が注がれます。アジア・メシアニック・フォーラム2009など、キリストにあるユダヤ人と異邦人が共に集う集会で、大きな祝福が注がれることは、実際に体験された方にはよくおわかりでしょう。 2)福音の力の新たなレベルでの解放 聖書の言葉によれば、ユダヤ人が回復することで、神の人類救済のご計画が新たな段階に入り、世界に大きな祝福をもたらすと予想されます。彼らの受け入れられることは「死人の復活」(ローマ11:11-23)だと、パウロは書いています。また、ローマ15:10(申命記32:43)には「異邦人よ。主の民とともに喜べ」と書かれています。 イスラエルの地に、初代教会と同様の教会(使徒行伝時代の教会)が回復すると同時に、聖霊派を中心に「使徒的教会の復興」というビジョンが語られるようになってきました。 使徒行伝時代に降り注いだ「先の雨」と同じ条件が復興されつつあることは、終わりの日の聖霊の顕著な働き「後の雨」の兆しです。 ピーター・ツカヒラ師は「神の時計の2本の針」という表現で、イスラエルのリバイバルと、アジアでのリバイバルが一つにつながっていることを指摘されています。(『神の津波』から) 3)イエス・キリストの再臨の条件 マタイ23:39において、イエスはユダヤ人(特にエルサレムの住民)に向かって「あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません」と言われました。今や多くのメシアニック・ジューが、そのヘブライ語である「バルーフ・ハバー・ベシェム・アドナイ」という賛美(いくつか曲がありますが)を歌う時代になっています。メシアニック・ジューの出現は、主イエスの再臨が近い印なのです。 4)聖書理解の深まり ユダヤ教とキリスト教は、それぞれ対立する聖書解釈を発達させてきました。ユダヤ教はキリスト教に都合の良い部分(たとえばイザヤ53章はメシアの苦難だとする解釈)を取り除き、キリスト教もまたユダヤ教に都合の良い部分(神は決してユダヤ人を捨てられないこと)を取り除いてきました。 その結果、互いに聖書解釈が曲がってしまっています。ユダヤ的な背景を持つメシアニック・ジューの出現により、私たち異邦人クリスチャンはその「失われた部分」を復興することができます。 また、ユダヤ的な文化的・言語的背景により、1世紀の文脈に戻って新約聖書を読むことができるようになり、より深く聖書を読むことができるようになりました。 とりわけ、契約(旧約・新約)の意義、律法の意味、例祭の意義など。 5)相続財産を受け取るために 私たちは、ユダヤ人と共に相続の約束を受けています。 4:16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。 この約束の主たる受け取り手はユダヤ人であり、その分配を受けるのが私たち異邦人クリスチャンです。そこで、主たる相続人が相続してくれないことには、どうにもなりません。世界を相続させること(=御国の完成)は、まさにユダヤ人の回復にかかっています。 実際に相続を体験された方は、「共同相続人」という言葉の意味をよくご存知でしょう。つまり、全ての共同相続人が揃って「遺産相続分割協議書」を作らない限り、財産に手をつけることはできません。ですから、誰かが行方不明になって連絡が取れないと、非常に困ったことになるのです。まさに「長男」であるユダヤ人が不在だったこの数千年間、まさに教会はそのような状態でした。 メシアニック・ジューの出現は、御国の完成に向けて全ての「世界の相続人」が揃う兆候であり、非常に大きな意味があるのです。 6)ユダヤ人とクリスチャンの和解に向けての一歩 クリスチャンがユダヤ人たちに対して筆舌に尽くし難い迫害と殺戮を行ってきたことは、キリスト教史の大きな汚点です。この罪の告白と悔い改めは大変重要であり、そのためにはユダヤ人に対する謝罪が重要です。 しかし、ユダヤ人に対する謝罪は必ず、ユダヤ人伝道中止の要求、つまり「ユダヤ人がイエスを信じなくても救われることを認めよ」という要求を呼ぶというジレンマを含んでいます。その結果、二契約神学(石井氏の解説参照)を認める人も少なくありません。しかし、メシアニック・ジューに対する謝罪と和解は、真のキリスト者同士の和解と一致がありえるため、新しい可能性を開いています。 ただし、メシアニック・ジューとの関係は一般のユダヤ人との和解を妨げると言う面もあります。あるラビは、クリスチャンの謝罪に「それならメシアニック・ジューと手を切れ」と要求しました。この種の要求は、陰に陽に出て来ますので、注意が必要です。 ■■■■■■■■■ 3 ユダヤ性を守る意義 ■■■■■■■■■■ さて、メシアニック・ジューに対峙する概念として、「ヘブル人クリスチャン」という用語が使われることがあります。この用語は、イエスを信じたユダヤ人で、自分は特にユダヤ人として生きる必要が無く、自分の子供もユダヤ人として育てる必要が無いと考えている人々を指します。 一説によると、救われるユダヤ人の中で半数以上は、ヘブル人クリスチャンになると言われます。それは、「あなたはクリスチャンになったからユダヤ人をやめなさい」という教会の指導の結果である場合や、もともと自分がユダヤ人だと言う意識が無かった場合があるようです。実際、ユダヤ性を守ることは大変面倒なことなので、特にアメリカなどにいる場合は、多数派である普通のクリスチャンに交じって普通の教会に通うのが、実際上は簡単なのです。 そういう人であっても、個人の救いと言う観点からは、特に問題は無いのかも知れません。しかし、二千年の苦難の歴史の末に、メシアに出会ったという「神のドラマの出演者」という角度から見ると、せっかくの役どころが台無しになっているという感は否めません。 絶対にイエスを信じないと、自他共に認めていた人々に、ある時期に集中的に、それも超自然的なやり方で聖霊が注がれたことは、どう考えても神の意思表示でしょう。しかし、そうしてキリストに出会った人々が「ハレルヤ、これでユダヤ人をやめることができました!」と言ったのでは、神の契約が成就したことになりません。やはり「神は忠実なお方で、私たちが不信仰であったにもかかわらず、こうして聖霊を注いで下さったのです。私たちは、神が約束を守られることの証人です」と言っていただきたいのです。そして、再臨が遅れた場合でも、その恵みを子孫に伝え、一族で「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と再臨のメシアをお迎えして欲しいと思います。 メシアニック・ジューは、レベルの違いはあっても「神のドラマの出演者」という観点から、ユダヤ人としての民族性を保ち続けようと考えている人々です。ユダヤ人としての民族性を守るとは、ユダヤ人として生きることであり、それには、当然のことながら(程度の問題は別として)律法の順守や、ユダヤの風習や伝統を守ることが含まれてきます。 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。…あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。…わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。(エゼキエル36:24-27) これを実行するためには「どのように」という議論が不可欠であり、しかも、ある程度の共同体としての合意が必要です。それは想像するよりも大変なことで、辛抱強く意見を調整するプロセスが必要です。 しかし、彼らの苦闘は私たち異邦人に見せるための神の業であり、それを見た時に「諸国の民は、わたしが主であることを知る」(エゼキエル36:23)のです。世界宣教を完成させる重要な役割を演じているメシアニック・ジューたちに、異邦人である私たちは注目し、応援するべきなのです。 |
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