安息日「シャバット」
毎週金曜日の日没から土曜日の日没まで


安息日に灯される「シャバットキャンドル」とワインあるいはブドウジュースを入れる
「キディッシュカップ」


安息日には、二つの「ハラーブレッド」と呼ばれるパンを用いる

安息日とは:

「主の例祭」と言われているものは7つあり、レビ記23章に述べられています。その中で、毎週金曜日の日没から土曜日の日没まで行われる、最もひんぱんに行われる主の例祭がこの「安息日」です。

安息日は:

1) 主の天地創造の完成を覚えるための日:創造主なる神が6日間の天地創造を終えられ、7日目にすべてのわざを完成されて休まれた日とし、第7日目を祝福されました。(創世記2:1-3)

神の創造のみわざを覚え、喜ぶ日なのです。

2) 安息日は栄えある日:「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、 そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」と主の御口が語られたからである。」(イザヤ58:13-14)

神が人々を養われるという約束を喜ぶ日なのです。

3) 神の祝福が2倍与えられる日:「主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」それで、民は七日目に休んだ。イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。」(出エジプト16:29-31)

人々は自分の力に頼らない、すなわち仕事をせずに神に100%信頼し、依存するよう主が命じておられるのです。

4) イスラエルの民としてのアイデンティティーを保つ「しるし」の一つ:「『あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。 イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。』」(出エジプト31:13-17)

イスラエルの民を束ね、一つにし、安息日を守るというおきてを通して、他の諸国民との違いを明白にされました。「守らない者は民から断ち切られる」と言われるほどに、主にとって真剣で重要なおきてなのです。

安息日について、聖書の特にモーセ五書(トーラー)からさらに引用します:

(出エジプト20: 8)安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

(出エジプト20:11)それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

(出エジプト31:15)六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。

(レビ:19: 3)おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

(レビ19:30)あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。

(レビ23: 3)六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。

(レビ26: 2)あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。

(申命記5:12)安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。

(申命記 5:15)あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。 ((旧約聖書からの引用以上)

安息日について、新約聖書から引用します:

(マタイ12:1-8)
そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
人の子は安息日の主です。」

(マルコ2:27-28)
また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」

(マタイ12: 9-14)
イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。

(マルコ3:2-5)
イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。
彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。
それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。
イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。

主イエスは、本来の「栄えある、喜びの日」であるはずの安息日を規則でがんじがらめにしてしまった律法学者たちを批判しています。安息日そのものを破ったり、安息日を否定していることは一切ありません。

(マルコ1:21-22)
それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

主イエスは、安息日にシナゴーグ(会堂)で教えられたとあります。恐らく、毎週シナゴーグで、教えられたことでしょう。

(使徒17: 2)
パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。

(使徒18: 4)
パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。

パウロも安息日ごとに会堂(シナゴーグ)で論じたとあります。主イエスと同じように、シナゴーグで教えています。

(ヘブル3:18-4:10)
また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。
そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。
こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

ヘブル人への手紙は、「ヘブル人」すなわちイスラエルの民に宛てたもので、彼らが神に対して不従順であると、それは「神の安息に入れない」ことをここで語っています。

安息日に関しては、「メシアニック・ジュダイズム」から引用致します:

安息日はユダヤ人の生活の中で要をなすものである。イェシュアによって教えられた通り、「安息日は人のために設けられたのであって、人は安息日のために造られたのではありません」(マルコ2章27節)。この日は律法主義的な服従のために与えられたのではない。しかし、安息日はユダヤ人のアイデンティティーにとって重要で意味のある日である。週ごとの休み、賛美と休息による一新という原則は、普遍的な意味を持つ。その意味において、安息日の原則は、すべての人にとって霊的な、また人間的な基準である。クリスチャンは、この原則を自由に、日曜日やまた他の日に当てはめることができる。イスラエルにとって、七日目の安息日は、神とイスラエルの間の契約をあらわす特別で中心的なしるしなのである。すなわち、ユダヤ人として契約のしるしを廃棄することは、神とイスラエルの間に続く契約を支持することに、反対するものである。安息日そのものはイスラエルが存在する前からあり、それは神の創造順序を反映するものであった。神がイスラエルに安息日を与えられたのは、神の恵みによる奴隷からの解放、また神の創造と七日目に主が休まれたことを記念するためであった。

メシアニック・ジュダイズムはイェシュアを「安息日の主」(マルコ2章28節)と見て、それを遵守する方向性を得ている。この日は普段に行う仕事からの休みであり、我々は賛美、交流と休息によって一新されるのである。この休息と一新によって、メシアニック・ジューが証言するのは、神であり創造主なる主であり、人は仕事をするためだけの存在ではないことである。それは、人生において経済的な側面、我々の人生に圧倒的な支配を及ぼすものである。信仰の人であり、イェシュアの中に「信仰の休息」を知っている者が世界に対して証言するのは、神は恵み深く優しい方であり、たとえ我々の人生の7分の1を、自分の現実的必要を満たすことに使わなかったとしても、神が信仰によって我々を養って下さるということである。

出エジプト記20章8-11節では、神の被造物に対する支配を証言することが安息日の意味だと説明されている。メシアニック・ジューは、「はじめに、神は天と地を創られた」(創世1章1節)という真実を支持することによって、すべての理論、つまり無神論、不可知論、進化論的自然主義、そして多神主義に反対する。

一方、申命記では安息日が出エジプトの記念とされ、同時に安息日は人道主義的な規定として強調されている。この日には、富む者も貧しい者も、自由人も奴隷も、仕事の支配から平等に自由を得る。安息日は原則的には信仰の原理である。神の御言葉を信じ、食べ物や着る物、住処に対する不安を捨て、主は我々の敬愛する御父であり提供者であることを信じる。我々は恐れることはないのである!

預言書を見てみると、安息日の基本的な重要性を再確認できる。イザヤは言った。「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない」(イザヤ56章2節)。この御言葉は、神の契約を愛し、心から安息日を認識することによってそれを表現する者たちが受ける祝福について、続いて叙述されている。

またイザヤ58章13-14節には、次のような言葉がある。「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を 『喜びの日』 と呼び、主の聖日を 『はえある日』 と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。『わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う』 と主の御口が語られたからである」。

神が主であることと、イスラエルが神の契約の民であることはイスラエルの信仰の中心だが、安息日の冒涜がその信仰を打ち砕いてしまうことを、預言者たちは知っていたのである!

新約聖書は、タナッハに書かれている安息日の認識を否定しない。また、イェシュアは正しい意味での安息日を破ってはいない。彼は自分自身のことを「安息日の主」(マルコ2章27節)と呼び、安息日を喜びとせず禁止事項を増やし、安息日をかえって負担にしてしまった律法主義者らを非難したのである。パリサイ人は主の弟子たちが畑を横切る時に穀物を食べたことを非難した。彼らの行動は、自然な反応によって起こされたものであり、仕事とは関係がない。しかしながら、その当時の律法主義者は、それは「収穫」をしていると決めつけたのである! イェシュアは、このような律法主義は人々を数々の禁止事項を気にするように仕向け、安息日の本当の意義―喜び、心身の爽快さ、新生が、見失われてしまうと考えた。安息日の主として、主は律法の意義を元の意味に正したのである。

ユダヤでない社会で礼拝日を自由に決めることを、使徒パウロは認めている。しかし、彼はユダヤ人が安息日を守ることに対して反対はまったくしていない。彼が反対したのは、非ユダヤ人に対する安息日の律法主義的な強制だった。歴史的な文書によると、最初の数世紀のユダヤ人信者は、安息日を自分たちの遺産と神の証として守り続けた。

非ユダヤ人共同体においても、ユダヤの影響である七日間を一週とする習慣は普遍的なものとなった。クリスチャン教会の礼拝日は日曜日となったが、安息日の精神は取り入れられた。クリスチャンの風習は曜日が異なるとはいえ、七日間のうちの一日を礼拝、新生、そして休息にあてるものなのである。
(引用以上)

安息日は、ユダヤ人がユダヤ人たらしめる、イスラエルがイスラエルたらしめる「神からのしるし」であり、 また、よく言われていることですが「ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、安息日がユダヤ人を守ったのだ」と。安息日のお陰でユダヤ人がそのアイデンティティーを、世界中に散らした後でも保ち続け、ユダヤ人という民族を保持してきたとも言われています。ユダヤ人であることと、「安息日を守る」ことは、不可分な要素の一つなのです。

ユダヤ人、メシアニック・ジューはどういうふうに安息日を過ごしているのだろうか:

安息日は、まず金曜日の夜の「エレヴ・シャバット」、家庭での安息日前夜祭の食卓から始まり、翌朝(土曜日の朝)にシナゴーグあるいはコングリゲーションへ行って礼拝し、そして、土曜日の夕方に「ハヴダラー」と言って、安息日にお別れを告げるお祭りをします。(ハヴダラーを省略する人もいます。)

正統派ユダヤ教徒の生活を守るメシアニック・ジューたちの場合、もっと複雑で、金曜日の日没前、安息日の始まる直前にシナゴーグへ行って、そこで共同体として祈りを捧げ、家に帰って「エレヴ・シャバット」安息日前夜祭の食卓を家で囲み、翌朝シナゴーグで礼拝し、そして、ハヴダラーの時再びシナゴーグへ行って礼拝します。

聖書暦では、新しい日の始まりは日没後「星が3つ出る」時です。安息日が始まる前の金曜日、イスラエルを始め世界中のユダヤ人、メシアニック・ジューらは、まだ金曜日の日の高い内に「お掃除」、「お買い物」、「お料理」を済ませます。

「サフランミニストリーズ」代表の内山師も、以下のように述べています。

「ユダヤ社会では、安息日は結婚式を迎える"花嫁"に喩えています。
「あの方は私を祝宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗印は愛でした。(雅歌2:4)」

安息日前夜(エレヴ・シャバット)の夕食会は、メシアニックの家族にとっても特別な時です。一週間の労働を終え、身支度を整え、食卓に集まります。卓上には、いつもの夜とは違って、二本の燭台、ぶどう酒(ジュース)、二撚りのパン(ハラーブレッド)が、際立 って置かれています。花嫁を迎える祝宴の嬉しさが、テーブルを囲む人々の心に広がっています。私達を、蝋燭の点火、パン、ぶどうの実をもって聖別されるお方を褒め称え、厳かに安息日を迎えることが出来たことを感謝して始まります。 」
(サフランミニストリーズのHP「安息日」から抜粋)

安息日が始まる日没前後、「エレヴ・シャバット」と言って、「安息日前夜祭」とも言える祝祭の食卓を、家族で囲みます。
その時、上記のように「二本の燭台」、ぶどう酒又はぶどうジュース、そしてハラーブレッドが、ディナーの中で用意されます。


安息日に限らず、すべての例祭において、祭りの始まりは2本の燭台に火を灯し、
女性が祈ることから始まります。
写真は、「サフランミニストリーズ」の内山師の妻である文枝師が、ロウソク点灯の祈りをしている所。(2002年軽井沢)

家庭での安息日前夜祭(エレヴ・シャバット)の過ごし方:

2本の燭台に火を灯す

これは、その家庭の年長の女性が行うならわしとなっています。説はいろいろあり、女性が命を生み出す者であることを記念する、女性であるイヴが惑わされ、罪を犯してしまったが、世の光であるメシアを生み出して、その罪の贖いをもたらすということで、女性が灯すとも言われています。


左は「メシアニック・シャバット・シドール」すなわちメシアニック・ジューが使うシャバット用の式次第
右は「キディッシュ・アンソロジー」と呼ばれる冊子で、「キディッシュ」とはヘブライ語で「聖別する」
聖別するための杯を飲む時に唱和される祈りの本です。
筆者がアメリカとイスラエルで入手したもの。
これら両冊子の「いいところ」は、ヘブライ語に必ず英語のTransliteration(英語表記)と、英語で意味があることです。
英語が分かればちゃんとヘブライ語も読める、意味が分かる工夫がされています。

そして、上の図のような冊子を取り出して、(暗記している人はそのまま唱和する)、祈りを詠唱します。

「ほむべきかな、私たちの神であられる主、宇宙の統治者にて、主の御言葉で私たちを聖別し、メシアであられるイエシュアを与えて下さり、私たちに世の光たれと命じられたお方。アーメン」(ヘブライ語で)
(上記の「メシアニック・シャバット・シドール」の祈りを和訳。)

その後、アシュケナジー系のユダヤ人あるいはメシアニック・ジューは、よく「屋根の上のバイオリン弾き」の中にある「平安があなた方の上にあるように」(シャローム・アレイヘム)を歌います。

その後、家の主人(夫)が、妻に向かって箴言31章を歌い上げます。(ちゃんとメロディーがついています。全部ヘブライ語で。)

しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。
夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。
彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない。
彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。
彼女は商人の舟のように、遠い所から食糧を運んで来る。
彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使の女たちに用事を言いつける。
彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、自分がかせいで、ぶどう畑を作り、
腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう。
彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。
彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、手に糸巻きをつかむ。
彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる。 (箴言31:10〜20)

そして、家の主人(父)は、息子、娘(たち)に祝祷を行います。

息子(たちに):

「神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。」(創世記48:29)(ヘブライ語で)

娘(たちに):

「神があなたをサラやリベカ、ラケルおよびレアのようになさるように。」(後で付け加えられたもので、聖書にはない)(ヘブライ語で)

そして、最後の家の主人は「アロンの祝祷」をします:

「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」(民数記6:24-26)(ヘブライ語で)

そして、夕食を皆で食べます。その時、パンとぶどう酒(ぶどうジュース)を飲みますが、それぞれ祈りが付いています。


キディッシュカップ(聖別の杯)

まず、キディッシュ(聖別のワインまたはぶどうジュース)カップを持ち上げ、家の主人は祈ります。

「ほむべきかな、私たちの神であられる主、宇宙の統治者にて、地よりぶどうを産したまいしお方。」(ヘブライ語で)

通常、キディッシュカップは、並々とカップの縁までワインあるいはぶどうジュースで満たすそうです。


ハラーブレッドは、過越の祭り以外のすべての例祭(安息日、七週の祭り、ラッパを吹き鳴らす祭り、大贖罪日
仮庵の祭りなど)に使われる「種入りのパン」です。オーブンで焼く前に、3本の細いパンを、互いに6回三つ編みにして
1個のハラーブレッドを作ります。これを2個作ります。
Wikipedia "Challah"より写真引用

家の主人は、ハラーブレッド2個を持ち上げ、祝福します。

「ほむべきかな、私たちの神であられる主、宇宙の統治者にて、地よりパンを産したまいしお方。」(ヘブライ語で)

2個使うのは、出エジプトの後、荒野で主がイスラエルの民を「マナ」で養われた時、安息日の前の日に「マナ」を2倍降らせて、安息日にはマナを集める必要がないようにしたことを記念しています。

そして、家族は夕食を食べるのです。

翌朝はシナゴーグあるいはコングリゲーションへ行って礼拝する:

翌朝は、家族そろってきちんとした装いで、シナゴーグあるいはコングリゲーションに出かけて、礼拝を捧げます。礼拝はだいたい2時間〜3時間ぐらいです。礼拝後、自宅に戻りますが、金曜日の日没前に用意しておいた食事を昼食につまみ、安息日は決して誰も「働かない」ようにします。お皿も洗いません。食事を用意する妻(母)は、その日一切「働かない」ように工夫します。例えば食事が常に温かいように、保温機能のついたオーブンをオンのままにし、食事が冷めないようにする、安息日の昼食はペーパープレートを使うなど、「労働」が発生しないようにします。

年間のトーラーリーディング(律法の書の個所を読む):

全世界のシナゴーグでは、毎安息日に、決まった聖書の個所を朗読し、その個所について簡単な教えをする伝統があります。律法の書(モーセ五書)を、1年かけて、52週に渡って安息日ごと朗読する個所ですが、律法の書とその内容に沿う、預言書も読まれます。

例えば、2009年10月24日の個所ですが:

トーラー(律法の書)の個所は、創世記6:9-11:32「ノア」、ハフトーラー(預言書)の個所はイザヤ書54:1-55:5

メシアニック・ジューの集うコングリゲーションあるいはシナゴーグでは、上記の「トーラー」と「ハフトーラー」の個所に加え:

トーラー(律法の書)の個所は、創世記6:9-11:32「ノア」、ハフトーラー(預言書)の個所はイザヤ書54:1-55:5、ブリット・ハダシャ(新しい契約・新約聖書)の個所はIペテロ3:18-22

と、いうように、安息日の礼拝ごとに、読み上げられる聖書の個所が決まっています。メシアニック・コングリゲーションで読まれる新約聖書の個所には、各団体によっては読まれる個所が若干違います。例えばUMJC系列ではこの日の新約はこの個所、MJAA系列では別の個所と、グループごとに取り決めているようです。

もちろんこれを全部通して朗読する訳ではありません。上記の個所の一部を取り出して、その日の朗読担当に当たる人がトーラー、ハフトーラー、ブリット・ハダシャを朗読し(通常それぞれの個所を一人ずつ、合計3名が読み上げる)、その部分についての小メッセージをトーラー朗読担当者が行います。


Lederer社が発行するメシアニック・ジュー用の聖書暦


上記は2009年4月10日、11日の近影
11日(土)は、ニサンの月17日で、過越の祭り、種を入れないパンの祭り第3日と書かれています。
そして、この日に読み上げられる聖書の個所は:
トーラー(モーセ五書):出エジプト33:12-34:26、民数記28:19-25
ハフトーラー(預言書):エゼキエル書36:37-37:14
ブリット・ハダシャ(新約聖書):Iコリント5:6-8

ちなみに、10日金曜日に安息日のロウソク点灯時間まで書いてあります。6:24pmです。
その翌週17日のロウソク点灯時間は、6:29pmです。(10の数字の真下ご覧下さい)

年間のトーラー、ハフトーラー、そしてメシアニック・ジューの場合ブリット・ハダシャ(新しい契約・新約聖書)の個所を読み上げる場合、年間の始まりはユダヤ教、メシアニック・コングリゲーション共に同じです。すなわち:

仮庵の祭りの最終日、シェミニ・アツレイの日に、申命記の最後の個所と、創世記の最初の個所を読み上げます。つまり、仮庵の祭りの最終日が、トーラーリーディングの最後であり、最初です。

年間のトーラー、ハフトーラー、ブリット・ハダシャの個所につきましては、メシアニック・ジューが発行する聖書暦カレンダーには、かならず載っています。日本語での聖書暦カレンダーは、月刊「ハーザー」誌に掲載されています。(ただし、5月号なら5月分のみ)

インターネット上での聖書暦情報につきましては、http://www.hebcal.com/をご覧下さい。(英語)

ハヴダラー(安息日から通常の日への移行の祭り)の仕方:

土曜日の夕方、夕食の頃、「安息日」とお別れをする「ハヴダラー」を行います。


http://www.judaicauniverse.com/WineCups.htmから引用
ハヴダラーに使うのは、キディッシュカップ、ハヴダラー専用の三つ編みロウソク、そして、
甘いスパイスミックスを入れるスパイス用のつぼ

ハブダラーは、安息日が終わる土曜日の夕方、日が暮れてから「星が三つ出たら」行われます。「ハブダラー」はヘブライ語の「ル・ハヴ・ディール」(分ける)という単語から来ています。つまり、聖なる「安息日」から、再び日常へと「分ける」お祭りです。

キディッシュカップにワインあるいはぶどうジュースを注ぐ時、受け皿に溢れるほど注ぎます。神の「溢れんばかりの恵み」を表します。週の間、主が「溢れんばかりに」恵みを下さるように、という祈りがこもっています。また、三つ編みになっているロウソクは、「世の真の光」「神」「人」を寄り合わせる、メシアニック・ジューの解釈では「主の中に留まる」「主と共にいる」そして「世の真の光」、つまり、メシアに留まることを表しています。(メシアニック・シャバット・シドールより引用)

三つ編みのロウソクは家の主人が火を付け、同時にキディッシュカップを持ち上げて祈ります。(ヘブライ語で)

(イザヤ12:2)見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
(イザヤ12:3)あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。
(詩篇3: 8) 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ
(詩篇46: 7) 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
万軍の主よ、主を信頼するものは讃えられる。主は救われる。我らが呼ばわる日、王は答えて下さるように。
ユダヤ人には光、喜び、誉れがあり、それが我らと共にありますように。我は救いの杯を持ち上げ、主の御名を呼ばわり、
ほむべきかな、私たちの神であられる主、宇宙の統治者にて、地よりぶどうを産したまいしお方。

そして、スパイス用の壷を持ち上げて祈ります。スパイスの壷は、主の恵みの甘さ、かぐわしさを親しむためのものです。

「ほむべきかな、私たちの神であられる主、宇宙の統治者にて、スパイスの中のスパイスを産したまいしお方。」(ヘブライ語で)そして、さらに続けて祈ります。

「ほむべきかな、私たちの神であられる主、宇宙の統治者にて、火の光を産したまいしお方。」(ヘブライ語で)

再びキディッシュカップが持ち上げられ、祈ります。

「ほむべきかな、私たちの神であられる主、宇宙の統治者にて、世と俗とを、光と闇とを、イスラエルと諸国とを、第七日目と6日間の労働とを分けられたるお方。ほむべきかな、私たちの神であられる主。世と俗を分けられたるお方。」(ヘブライ語で)

そして、「預言者エリヤ」が歌われます。これは、過越の祭りの時にも歌われるものです。(ヘブライ語で)

「預言者エリヤ、ギルアデのテイシュベ族出身のエリヤ。
彼がもうまもなく私達の世代に来られ、
ダビデの子である救い主をお連れくださるように。」

最後に「シャヴォア・トヴ!」(良い一週間を!)と挨拶して、締め括ります。

以上が、安息日「シャバット」の過ごし方です。いかにユダヤ人が様々な祈り、道具、歌を持って主に集中し、賛美を捧げているかが理解できるかと思います。ただ、上記は安息日の過ごし方の一例で、多少のバリエーションが存在し、正統派的な生活を守っているメシアニック・ジューほど、複雑で高度な式典、式次第を守っています。しかし、世俗的な家庭でも、安息日前夜祭の夕食時には、ロウソクを灯して、ハラーブレッドとワイン(ぶどうジュース)を用意して祈っていると言われています。ハブダラーは省略されるケースは多々見られました。

参考文献:
聖書(新改訳)
Messianic Shabbat Siddur by Jeremiah Greenberg (Seventh Printing)
The Kiddush Anthology by Dan Hafakot (Leshon Limudim Ltd.)
メシアニック・ジュダイズム ダン・ジャスター著(マルコーシュ・パブリケーション)
「サフランミニストリーズHP」 http://asiamessia.ld.infoseek.co.jp/index.htmhttp://www.hebcal.com/

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