大贖罪日「ヨム・キップール」 大贖罪日(ヨム・キップール)は、ユダヤ人にとって最も聖なる、厳かな日: 大贖罪日は、聖書暦第7月(ティシュリの月)の10日目に当たります。ラッパを吹き鳴らす祭りから10日間の悔い改めの期間中、ユダヤ人は自己検分を行い、大贖罪日に備えます。そして、この最も聖なる日に、人々は24時間の断食を行い、主に祈るのです。 敬虔なユダヤ人はバー・ミツバ(男子の成人式で13歳)あるいはバット・ミツバ(女子の成人式で12歳)以上の健康な人は皆断食(食事と水)を行います。(健康に問題がある人、高齢者、妊娠している人などは行いません。) メシアニック・ジューもこの時、他の未信者ユダヤ人と共に断食を行う人が多いです。イスラエルではこの日、特にエルサレムでは街中の商店が閉まり、道も車一台通らなくなり、子どもたちが自転車で移動するのが目に付きます。 聖書にある「大贖罪日」: (出エジプト30:10) (レビ16:2-20) (レビ記 23:23-32) (レビ記25: 9) (民数記29: 7-11) 幕屋や神殿があった時代、大祭司は年に1度、罪のためのいけにえからとられた血を持って至聖所に入り、祭壇の角に血を塗り、契約の箱に向かって血を注ぎます。そして、贖いのふたに雄牛の血をふりかけます。その手順を間違えるとすぐさま死が訪れるという、大変な緊張が伴うもので、万が一大祭司が至聖所で亡くなった場合にそなえ、大祭司の足にはひもがくくりつけられ、至聖所からひっぱりだせるようにしたという。 そして、二匹の山羊を取り、くじを引き、一方を罪のためのいけにえとし、もう一方を「アザゼル」とします。アザゼルとなった山羊は、大祭司が手を山羊の頭において祈り、民の罪をその山羊へ移します。そして、荒野に放ちました。実際には、荒野に放つ時、崖から落として必ず戻ってこないようにしたと言われています。 この日はイスラエルの民は全員、「身を戒める」つまり断食をして、一切の労働をしませんでした。 新約聖書での「大贖罪日」、キリストによる成就: (ヘブル7:27-28) (ヘブル9:7-15) (ヘブル9:23-10:20) ヘブル人への手紙には、キリストこそ大祭司その人であり、しかも罪のためのいけにえの血をも提供し、天の至聖所において完全なる贖いのわざを完成された方であると強調しています。 そして、キリストが再臨される日を象徴するのが、この「大贖罪日」であるとメシアニック・ジューは信じており、栄光を帯びた主が地上に降り立ち、千年王国をうち立てられ、この世を裁かれる日でもあるのです。 そういうわけで、メシアニック・ジューの中には、「すでにキリストが一度きりの大贖罪のわざを行って、それは完成したのだから、地上で大贖罪日を祝わなくともいいのでは」という意見もあるようですが、大半は「他のユダヤ共同体と共に祈る姿勢、そして毎年の大贖罪日をキリストのわざの完成を記念する日として、毎年断食して主のわざを覚えようではないか。」と積極的に断食する人々も多いのです。それは、まだ成就していないもう一つのみわざ、すなわち、「キリストが再臨し、全世界を裁かれる」という大いなる恐るべき日をおぼえるために、人々は断食し、キリストの御名によって祈るのです。 紀元30年頃の大贖罪日に起こった不思議な出来事: タルムードには、紀元30年頃、すなわち神殿が破壊される紀元70年のちょうど40年前の大贖罪日に、不思議な出来事が起こったことを記録しています。 エルサレム・タルムード: バビロニアン・タルムード: 「くじ」の奇跡 「赤いひもが白くならない」 (イザヤ1:18) しかし、紀元30年から40年間、そのひもは赤いままとなりました。すなわち、神がそのいけにえを「受け入れなくなった」ことを示していたのです。 神殿の扉が勝手に開く 「ラバン(ラビのこと)ヨハナン・ベン・ザッカイは神殿に向かって言いました。『神殿よ、ああ、神殿よ。なぜ汝は我らを恐れさせるのか。汝が破壊されることを我らは知っているからだ。それは、このように書かれているからだ。『レバノンよ。おまえの門をあけよ。火が、おまえの杉の木を焼き尽くそう。(ゼカリヤ 11: 1)』」(ソタ6:3) このヨハナン・ベン・ザッカイという人物は、サンヘドリン(ユダヤ最高法院)の指導者で、紀元70年に神殿が破壊された後、サンヘドリンをヤブネへ移した人物です。(詳細はメシアニック・ジューの歴史年表をご覧下さい) 神殿の扉が開いたことは、神の臨在がそこから去ったということ、そして、大祭司だけでなく、誰でも至聖所に至る入り口から入れることとなったのを表しているのです。 神殿のともしびが消えてしまう しかし、神殿崩壊に至る40年間、紀元30年頃から、どんな努力や注意を払っても、どうしても西側のメノラーだけが灯せなくなってしまったのです。すなわち、神の臨在が神殿から去ったということをここでも示しているのです。 紀元30年、それはキリストが十字架にかけられた年でした。キリストによる贖いのわざの完成により、神殿がもはや不要になったという、恐るべき証が、タルムードに記録されているのです。(以上Solomon's TempleのTalmudic Evidence for the Messiah at 30 C.E. http://www.3dbibleproject.com/en/temple/details/evidence.htmから引用) ヨム・キプール(大贖罪日)「メシアニック・ジュダイズム」から引用: ヨム・キプールはユダヤの一年の中で最も聖なる日である。古代イスラエルでは、ヨム・キプールは全国民の贖いが行われた日であった(レビ16章)。この日、大祭司が犠牲の血を持って至聖所に入り、人々の罪の贖いを行った。彼は契約の箱に血を振りかけた。ヨム・キプールで最も顕著な儀式、それは贖罪の山羊(スケープゴート)である。祭司はその動物の頭に手を置いた。それは人々の罪を持ち去る象徴であった。この日は唯一トーラーにおいて、断食を定めた日である。この日はイスラエル全体として、罪の悔い改めのため、「自らを苦しめ」るのである。伝統的なユダヤ教では、神に赦しを願うための、多くのすばらしい悔い改めの祈祷がある。いくつかメシア的な意味を伴うものもある。例えば、メシアの功績によって、罪の赦しが求められるのである(注6)。また、アブラハムがイサクを犠牲として捧げたことによっても、罪の赦しが求められる。(メシアニック・ジューは、それがメシアであるイェシュアの犠牲の予表であることを知っているのである)。(同様のことは日々の礼拝の場合にもあてはまる)。 ヨム・キプールはメシアニック・ジュダイズムにとって中心的な意味を持つ。我々は、祈りや祭日を守ることによって、贖いを得ようとするものではない。我々の大祭司、我々の贖い、我々の贖罪の山羊はメシアであるイェシュアなのである!ヘブル書の中心的な章は、イェシュアをヨム・キプールの観点から詳細に説明しているが、これらの章は現代の我々にとっても重要なものである。 ヨム・キプールは我々にとって、いくつかの意味を伴う。 @この日は、祭司や犠牲の聖書的意義が、イェシュアによって成就したことを祝う中心的な祝祭なのである。 この日は共同体の中で賛美をし、日常から離れて、過去の年月を省みる日である。どこで神の導きを見失ったであろうか。どこが成長しただろうか。どこで滑り落ちたであろうか。ヤコブ4章6-11節が命じているように、神に対して我々は悔い改め、罪から立ち帰るのである。告白と赦しが、イェシュアにあって我々の日常を形成する。しかし、個人として、また共同体として、この目的のため、この時を特別な時期とすることに価値を置くのである。 ヨム・キプールの礼拝はメシアによる成就に重きを置き、同時に上記の要素も含む。断食を終える時は特別な喜びの時となり、イェシュアによる赦しを祝うのである。 ヨム・キプールに関係して、特に誤解を招きやすい二点を指摘しておくべきであろう。一つは、最初の夜に行われるコル・ニドレの礼拝でなされる「コル・ニドレ」(すべての誓い)という唱和である。この特別な唱和は、過去から将来にわたって我々が誓い、さらにそれを破ってしまうことを、赦してもらうというものである。過去にユダヤ人は、意図して誓いを破るのではなく、激しい脅迫や拷問によって、神に忠実であれば決して守れない誓いをさせられた。しかし、メシアニック・ジューには神の恩寵の約束があり、全く真実であれというイェシュアからの命令を与えられている。我々がヨム・キプールを守り行う時は、この点を強調する必要がある。 二つ目に、ロシュ・ハシャナとヨム・キプール両方の礼拝で、「命の書」に(新年も)自分の名が記録されるように祈るというものがある。イェシュアを信じる者は、時々この祈りとロシュ・ハシャナでの伝統的なユダヤ式挨拶、「あなたの名が命の書に刻まれるように……」、というのに違和感を覚えることがある。 ユダヤ教の中で、「命の書」はいくつかの説明がある。ある人々は、それは永遠の命の書を象徴するものだと言い、それは黙示録に書かれてある本と同じものだという。しかし、新しい一年の間、命と健康が守られる人々の名前を神が記されるのが「命の書」ではないか、という人々もある。もし後者の意味で理解するならば、前述のような新年の挨拶をしても問題はないだろう。(引用以上) ヨム・キップールの過ごし方: ヨム・キップールの前夜祭として「コル・ニドレ」(すべての誓い)という日があります。ヨム・キップールが始まる日没前に、人々はシナゴーグに集まります。そして、カンター(祈祷者)が以下のように祈ります。(アラム語で祈るそうです) 「私たちが行うであろうすべての個人的な誓い、このヨム・キップールと次のヨム・キップールの間で行うすべての誓約について、私たちは公式にそれを破棄します。それらはすべて撤回され、破棄され、無効となり、堅く立てられることのないように祈ります。私たちの個人的な誓約、誓いは、それが正式な誓約や誓いとならないように祈ります。」 そして指導者と会衆は以下の祈りを一緒に3回繰り返します。 「イスラエルのすべての人々が許されますように。我々の間に住む異邦人も含まれますように。それは、すべての人々に咎があるからです。」 そう唱和した後、ヨム・キップールの夕刻の礼拝へと移ります。 なぜこのような「誓約の破棄」をするのかといいますと、過去の歴史の中で、ユダヤ人が強制的にキリスト教に改宗させられ、心にない誓いをさせられた経緯により、神に「心にない誓いをさせられて、それがどうか破棄されますように」と悔い改め、赦しを求める祈りとして定着したのです。 翌朝と昼過ぎにも礼拝があり、特に正統派ユダヤ教では、ヨム・キップール前夜祭のコル・ニドレ、翌朝、昼、夕刻の断食終了(breakfast)まで、シナゴーグで礼拝します。 夜、日がすっかり暮れてヨム・キップールが終了すると、皆で断食終了(breakfast)のお食事を取ります。家庭ごとに自宅でする場合もあれば、シナゴーグで軽食をとる場合もあります。 ヨム・キップールの礼拝には、様々な伝統や祈りがありますが、メシアニック・ジューが行わない風習もありますので、ここではそれを割愛します。 2008年の調査で、イスラエルの63%の人はヨム・キップールに断食するという結果が出ています。宗教的、世俗的問わず、ヨム・キップールは最も聖なる日として、人々は厳粛に受け止めている様子がうかがえます。
ヨム・キップール戦争(第四次中東戦争): イスラエル人にとって、ヨム・キップールは、「大贖罪日」だけでなく、1973年の第四次中東戦争を記念する日となりました。1973年10月6日、ちょうどヨム・キップールの日に、エジプトとシリアの連合軍が奇襲攻撃をしかけてきました。開戦から3日間でイスラエル軍は戦車400両以上、死傷者3000人を越す大損害を被りました。 ゴラン高原のシリア軍は1,400両の大戦車団を投入し、イスラエル領内になだれ込もうとしました。それに対するイスラエル側は戦車180両と圧倒的に不利でしたが、何とそこでイスラエル軍は二日間前戦を維持したのでした。Against All OddsというDVD(Bill McKay製作)によりますと、当時ゴラン高原の前戦にいたアヴィ・ドル・カハラニという指揮官が、たった7両の戦車団を率いて迫り来るシリア軍をせき止めようと前進しました。カハラニが前進命令を出しても、恐れをなした他の戦車が前へ進まないにもかかわらず、彼は前進しました。すると、シリア軍が突如恐怖に駆られ、退却を始めたのでした。アメリカからの援助により、イスラエル軍の反撃が始まったからでした。 一方、ニクソン政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官、兼、国務長官であったキッシンジャーは、当時のイスラエル首相であったゴルダ・メイア氏(女性の首相です)の再三の軍事援助の要請を断っていました。「イスラエル人は少し『出血』した方がいい」と彼は言ったと言われています。キッシンジャーが受け付けてくれないことにたまりかねたゴルダ・メイア氏は直接ニクソン大統領に電話をかけました。午前3時の電話で、メイア氏は「今援助してくれなければ、ユダヤ人は生き残ることはできない。」と必死の嘆願したそうです。その電話を受けて、ニクソン氏は「まるで母親の声を聞いているようだ。」と言ったそうです。 ニクソン氏は幼い頃、母親から旧約聖書を読んで聞かせてもらったことを思い出し、母親は幼い頃のニクソン氏にこう言ったとメイア氏に話しました。「リチャード。いつの日か、あなたは高い地位に就き、ユダヤ人を救い出すのです。もしその日が来たら、あなたはどんなことをしてでも、その地位を用いて助けなければなりません。」さらにニクソン氏は「あなたからの要請を聞いて、私は初めて、なぜ今自分がアメリカ大統領であるかを理解したように思います。」と答えたそうです。そして、急遽イスラエルを救うべく命令を出したという。その軍需輸送作戦は第二次世界大戦以来の規模で、一晩で必要な軍需物資、兵器、人材を前戦に投入したと言われています。ニクソン氏はユダヤ人嫌いで有名ですが、この奇跡的なタイミングとニクソン氏の決断により、ヨム・キップール戦争を勝利に導き、イスラエルを滅亡から救ったといいます。 以上のエピソードは、Against All OddsというDVD(Bill McKay製作)American Trademark Pictures LLCから引用したものです。上記のカハラニという戦車団の指揮官は、1967年の六日戦争の時彼が乗っていた戦車が攻撃を受け、彼は火だるまになって戦車からはい出して、全身に大やけどを負い、奇跡的に生き延びた人です。彼は1年に及ぶ過酷な治療を経て、再び戦車隊に戻り、1973年のヨム・キップール戦争で前戦指揮官として立ったという、イスラエルでは有名な英雄だそうです。(カハラニ氏本人がこのDVDの映像に映っておられたので、2007年の段階ではお元気に生きておられるようです。) ヨム・キップールは、イスラエル人にとっては、大贖罪日だけでなく、イスラエルが滅亡の危機から救われた日でもあるのです。 参考文献: |
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