メシアニック・ジューが祝う「主の例祭」

京都グローリーチャーチで主の例祭が行われる時の
ディスプレイ。中央手前は「シャバットキャンドル」、その右にトーラーの小型レプリカ、その後ろに角笛「ショーファー」、その後ろに7本の枝を持つ燭台「メノラー」、そして十字架。

この教会では、クリスチャンのお祭りであるクリスマスなどは通常通りお祝いし、主の例祭の内、「過越の祭り」と「仮庵の祭り」をクリスチャンとしての流儀で毎年お祝いしています。

(例祭の写真がありすぎて、今仮にこの写真をアップしています。他の写真と解説に変更するかもしれません。)

目次

聖書暦

主の例祭とは

安息日

過越の祭り

初穂の祭り

七週の祭り

ラッパを吹き鳴らす祭り(新年の祭り)

大贖罪日

仮庵の祭り

主の例祭以外で、メシアニック・ジューが祝う
ユダヤのお祭り

ハヌカ(光の祭典)

プリムの祭り



<クリスチャンと主の例祭>
文責:シオンとの架け橋 石井田直二

クリスチャンにとって「主の例祭」を祝うことが是か非かという問題は、メシアニック運動に関して議論がある分野の一つです。

【キリスト者の自由と寛容の原則】

この問題に関して、パウロはローマ書で次のように述べています。

14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

つまり、それぞれの人が神との関係の中で確信を持ち、信仰によって行動し、それを他の人々がさばいてはいけない、というわけです。

【異端審問とユダヤ人信者】

しかし、実際には、例祭をめぐって多くの争いがあり、中世には「異端審問」として、少しでもユダヤ的な風習を守ったユダヤ人クリスチャンは、ひどい拷問に合わされ、殺害されて来ました。

近年では、キリスト教の態度も変化し、ユダヤ人信徒がユダヤ的な風習を守っても焼き殺すことはありませんが、それでもユダヤの例祭を守る人々を激しい言葉で非難することは、決して珍しいことではありません。

多くの教会では、最近でもユダヤ人が回心した場合「あなたはもうユダヤ人ではなくなったのですから、ユダヤの祭はやめましょう」と教えています。

メシアニック運動は、回心したユダヤ人たちが、ユダヤ的な文脈の中で信仰表現をし、ユダヤの祭を祝うころを、クリスチャンたちに認めてもらうための闘いなのです。

【主の例祭の霊的意義】

メシアニック・ジューたちの大きな発見は、主の例祭が深い新約的な意義を持っていることでした。それぞれの祭を、イエスを信じるユダヤ人たちが祝った時、それはメシア(キリスト)を指し示す重要な意味を持っていることを発見したのです。

実際、主の例祭は、メシアの来臨のために神の民を整えるために用意されたと言っても過言ではないでしょう。

この面については、実際にメシアニック・コングリゲーションの執事を務めておられた内山憲司師の解説が、とても参考になります。また、岐阜福音教会の小山大三師が訳された「ユダヤの祭」も良書として推薦できます。

多くの図で祭の雰囲気を解説した豪華本としては、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ出版部 の「主の門に入れ」もお勧めです。
こうした学びは、あらゆるクリスチャンにとって有益で、時には祭を体験してみることも理解を深めるでしょう。

【共同体としての側面】

しかし、冒頭で述べたとおり、例祭を守るかどうかは、基本的には「キリスト者の自由」の問題であり、互いに強制すべきではありません。

ところが、祭は個人で祝うものではなく、集団的な礼拝や行事です。ですから、あるコングリゲーション(集会)としては、祭を祝うのか祝わないのか意思を決め、それに全員が従わなければなりません。

そこで、異邦人が大多数を占める教会で、数人のユダヤ人信徒が入って来たからといって、みんなでイースターをやめ、過越の祭を祝うべきなのか、という問題が出て来ます。

逆に、ユダヤ人が多数を占めるコングリゲーションに所属する異邦人メンバーは、例祭を守ることを求められるのでしょうか。

このような問題点があるため、ユダヤ性を守ることを召命だと感じるユダヤ人信者は、ユダヤ人が中心であるメシアニック・コングリゲーションに所属するのが望ましいと、多くのメシアニック指導者が考えています。

いずれにしても、パウロの原則を集会に適用するなら、それぞれの集会が祈って下した決定を、他の集会が軽々しく批判することは控えるべきでしょう。

【例祭遵守の問題点】

しかし、主の例祭を祝うクリスチャンが、祝わないクリスチャンを「見下げる」ことになった場合は、あまり良くない結果を招きます。中には「クリスマスやイースターは異教の祭であり、偶像礼拝だからけがれている」という主張もあり、そうなると主流のクリスチャンはみな偶像礼拝者で、自分たちだけが正しいということになってしまいます。

かなりユダヤ性を強調するメシアニックの某指導者に「これから新しく異邦人が集まって教会を始めるなら、安息日と主の例祭をベースにした礼拝にすべきかどうか」と質問したことがありますが、「それは避けた方が良いように思う。他の地域教会と協調できなくなる弊害の方が、主の例祭を祝う祝福より大きいのではないか」との答えでした。

主の例祭を祝うことは、確かに祝福であり学びではありますが、あまりにも強調されすぎると問題が出るようです。

また、ユダヤの祭は、ユダヤ民族を他の民族と区別するという意味合いもあり、やたらに異邦人が祭を祝うと、祭が異邦人に「乗っ取られ」て意味が失われるという問題もあります。それは、「ワントーラー論」に詳しく説明させていただいた通りです。

とはいえ、パウロの原則に照らした場合、一部の教会が様々な経緯からユダヤの祭を取り入れたとしても、それをもって「異端」だと非難することはできません。たとえば、メシアニック・コングリゲーションで主と出会い、その礼拝形式を愛する人々が中心になっている集会の場合などは、ユダヤの祭を祝うのが自然ではないでしょうか。

というわけで、主の例祭を「集会行事」として取り組まれる場合は、よく吟味し、主の導きを得て取り組まれることをお勧め致します。

ホームへ戻る
Copyright© A Bridge Between Zion and Japan, Joy of Zion: All Rights Reserved