主の例祭とは |
七つの主の例祭 聖書には、神がイスラエルの民に命じた例祭があり、それらは以下の通りです。 安息日(シャバット) レビ記23章全体に、神がイスラエルの民に命じた上記の例祭について、いつ、どう祝うべきか書かれています。 この例祭の内、安息日が最も回数が多く、毎週土曜日(正確に言うと金曜日の日没から土曜日の日没まで)、1年に52回行われる「例祭」です。 そして、三大例祭と言われるものは「過越の祭り、七週の祭り、仮庵の祭り」であり、聖書にも以下の記述があります。 (申命記16:16) あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。
主の例祭のそれぞれの祭りについては、「主の例祭」目次に戻って、それぞれの祭りの項目を参照して下さい。 なぜイスラエルの民は「主の例祭」を行うのか: 「主の例祭」を行うイスラエル人(ユダヤ人)について、なぜ彼らは「主の例祭」を祝うのか、また、「主の例祭」はどういうものなのかを解説して行きたいと思います。 そもそも、なぜ主は、このような事をイスラエルの民に述べられたのでしょうか。 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」(申命記7:7) 「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出エジプト記19:5-6) よく「神の選民」という言う方をしますが、その意味は実際こういう意味があります。 1) 神がイスラエルの民を選ばれた最大の理由は、彼らに契約、みおしえを与えて、神の指示通りの生活、風習を民族を挙げて守らせることにある。主の例祭はその一部である。 2) それによって、全世界に「全能の神であられる主は、こういうお方である」と、イスラエルの民の全生活を通して「証」させること。 3) イスラエルの民の神に対する敬虔さや、神に逆らう失敗を通してでも、神の存在、ご性格、恵みと栄光を証する役割を担う。 4) そのため、「聖書」という書物にイスラエルの民の行動がすべて記録され、開示される。全世界の人がイスラエルの民を通して主を知るためである。 イスラエルの民、「神の選民」の役割とは、すなわちズバリ「全能の神の存在、ご性格、偉大さ、栄光を全世界に知らせるために、永遠にプレゼンテーションをし続けること」なのです。しかも、成功面だけでなく、とんでもない失敗面や悲劇でさえもさらけ出され、それさえも神のご性格を証するプレゼンテーションの一部となるのです。ユダヤ人として生まれた以上、赤ん坊から死ぬまで、ユダヤ人という民が存在し続ける間、ずーっとイスラエルの民は神を証し続けるのが、彼らの「召命」なのです。それが聖書で言う「神の選民」の意味なのです。ユダヤ人一人一人が好むと好まざるとに関わらず。。。。 「メシアニック・ジュダイズム」の中で、ダン・ジャスター師もこう言ってます。 「神は、イスラエルを呼び出し、国々の中でもひときわ特異な国とし、主の真実と誠実の証とした。民族としては、彼らは主より特別な慣習が与えられた。例えば安息日や主の例祭などの数々の慣習であり、神がイスラエルを造られる上でいかに恵み深いことをなされたかを、これらの慣習を通して記憶することで、民を一つにまとめることができるようにされた。また、イスラエルには、聖書の真実と神の恵みを世に示していく、特別な目的を認識することによって、団結するのである。そして聖書伝来の例祭と祭日、イスラエル民族としてのアイデンティティーはその要をなすものである。(p330から引用) 「イスラエルの暦は神からのものである。イスラエルを存続させるイスラエルの遺産も神からのものである。神が恵み深き方であり、歴史の支配者であられることを、イスラエルは特別なやり方で証ししているのだ。「イスラエルへの神の賜物と召命は変わることがない。」(ローマ書11:29) (p333から引用) そして、その最たるものが「主の例祭」です。 「主の例祭」とは ここで、日本で初めて「主の例祭」を紹介された、「サフラン・ミニストリーズ」代表の内山師の文を一部引用します。(以下「サフラン・ミニストリーズのhttp://asiamessia.ld.infoseek.co.jp/サイトから一部抜粋) 主は律法(トーラー)の著者であり、(加筆:主ご自身が)その使徒(加筆:であり、かつ)宣教者である。 「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられた時、証しの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。(出エジプト記31:18)」 「主は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。(イザヤ42:21)」 「わたしが来たのは律法(トーラー)や預言者を廃棄する為だと思ってはなりません。廃棄する為ではなく、成就する為に来たのです。(マタイ5:17)」 このことから、主の来臨の目的のひとつは、ご自分が書かれたトーラーを主の民にはっきりと分からせることであった。文中の「広め」とは、ギリシャ原語では、「拡大してハッキリ見せる(To magnify)」との意味である。 旧約聖書が教える主の例祭に関する姿勢 @聖書には、イスラエル人は祭りを祝うことが命令されている。 1) 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわち私の例祭は次のとおりである。(レビ記23:2)」 例祭(Feasts)と訳されているヘブル語は「モエド」で、本来の意味は「会合の約束 (Appointment)」である。 信者は、神の定めた時、時期を知る必要がある。 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(伝道書3:1)」 自然を見れば分かることだが、種を蒔く時、刈り取る時といったように、神様は、時期を定め祝福を地にもたらして下さる。 「それが(再臨)いつなのか、またどういう時かについてはあなたがたは私達に書いてもらう必要がありません。(Iテサロニケ5:1)」 何故ならば、私達には神様のタイムテーブルが与えられているからである。 「あの万物の改まる時まで、、、(使徒3:21)」 それは、昔の預言者によって、語られている時である。 「見よ。まことにわたしは新しい天と地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。(イザヤ65:17)」
ユダヤ人でないクリスチャンが「主の例祭」を祝う義務はありませんが、その内容がどういうものであるかを学ぶのは、イエス・キリストの最初の降臨時のお働き、そして再臨に関して深い洞察を与えてくれます。 また、「主の例祭」や「聖書暦」を通して、主の全人類に対する壮大なタイムスケジュールを知ることができるのです。諸国のクリスチャンたちは1800年間、メシアニック・ジューの共同体を失っていたことにより、主のタイムスケジュール、ご計画に触れる機会を失っていました。しかし、今やそれを身を以て証ししてくれるメシアニック・ジューの存在により、主のタイムスケジュールや、主の再臨がどのようなものであるのか、具体的な内容を学ぶことができるようになったのです。 そういう意味において、「主の例祭」を学ぶのは、信者全体にとっても大変有益だと思います。 最後に「メシアニック・ジュダイズム」のダン・ジャスター師の言葉を引用します。 「イスラエルの例祭は全て、恵みによるものである。すなわち、出エジプトの奇跡に表わされた神の恵み、収穫を与えられる神の恵み、我らの全ての必要を満たされる神の恵みを祝うものである。その中に律法主義のかけらも意図されていないのだ。これらの例祭はまた、イスラエルの歴史が後々の世代にも現実感を帯びて受け止められるための、偉大な体験的教訓―個々の世代のための体験学習―なのである。」 主の例祭とイエシュア(イエス)のみわざとの関係: 主の例祭には、イエス・キリストがすでに成就したものと、今だ成就していないものとに分かれています。それは、春の例祭では成就し、秋の例祭ではまだ成就していません。 安息日(シャバット)-キリストは人々に安息を与えるため来られました。究極の安息である救いをもたらしました(成就) (春の例祭) (秋の例祭) このように、主の例祭には、豊かなイエス・キリストのみわざが生き生きと現れているのです。 「主の例祭」の内容や意味については、それぞれの項目をご覧下さい。 |
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