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歴史の彼方へ去ってゆくメシアニック・ジューたち(2) 第二次ユダヤ戦争、そして異邦人化する教会 |
マサダの陥落と第一次ユダヤ戦争の終結 エルサレムが紀元70年に陥落した後、ユダヤ人たちはベツレヘム近郊にあるヘロディウム(注1)や、マカイロス要塞(注2))に立てこもって抗戦を続けましたが、ローマの一個師団によって次々に陥落していきました。最後に、紀元66年ユダヤ人の過激派であるシカリ派がマサダの砦をローマ軍の手から奪回し、そこに立てこもって抗戦を始めたマサダ要塞において、紀元72年、エレアザル・ベン・ヤイル(Elazar ben Ya'ir)率いる1000人弱の抵抗軍は、進軍しマサダ要塞を包囲したローマ軍と戦いました。翌年の紀元73年、ローマ軍は膨大な土砂を積み上げてマサダ要塞の城壁に迫り、破城鎚で城壁を壊して要塞内部に侵入したところ、953名が自殺(実際には、一人が10名ほどを殺す、というのを繰り返し、最後の一人は地に立てた剣の上に倒れ込んで自害したという)していたのを発見しました。(7名の生存者がいたため、どのように人々が死んでいったのか、その記録が残ったという。)彼らはローマ兵に囚われ、処刑あるいは奴隷として連れ去られることを潔しとせず、自害したといいます。紀元73年のマサダの陥落を持って、第一次ユダヤ戦争は終結しました。 注1:ヘロディウム(ヘロディオンとも。ヘロデ大王が造らせた要塞宮殿。) サンヘドリンの移動とラビ指導によるユダヤ教の誕生 紀元70年、エルサレム陥落後、ユダヤ最高法院であるサンヘドリンはヨハナン・ベン・ザッカイの指導の元ヤブネ(注1)へ移転しました。現在に続くラビ指導による、神殿祭儀のないユダヤ教がここに誕生しました。ヨハナンはローマの許可の元、ヤブネにおいてハラハー(ユダヤ教の宗教、生活規定)を研究し決定する機関を立ち上げ、それが後日ミシュナー(聖書の律法書(トーラー)の注解書)編集へとつながるのです。サンヘドリンはヤブネに移転した後、紀元80年にはウシャ(注2)、に移転、そして再び紀元116年にヤブネに移転し、何度かヤブネとウシャの間を行ったり来たりしました。 注1:ヤブネ(Yavne):ガリラヤ湖畔の街ティベリウスから南西に下った所にある町で、現在でも存在する町) 古代ユダヤ教による古代メシアニック・ジュー(初代ユダヤ人キリスト信者)の排除 紀元90年、サンヘドリンは「ヤブネ会議」を開き、そこで旧約聖書の内容、掲載する書の規定を行いました。この時、紀元70年のエルサレム陥落前後に作られ、編纂されたと言われる「18の祝福(シェモナー・エスレ:Shmoneh Esreh)」あるいは「起立祈祷(テフィレット・ハ・アミダー:Tefilat HaAmidah)と呼ばれる祈祷文の中に「ビルカット・ハ・ミニーム:Birkat HaMinim(背教者の排除)」と呼ばれる祈祷文が12番目に付け加えられました。それは異端者を呪う祈祷ですが、ナザレ派を名指ししてそれを呪う内容でした。エルサレム攻防戦の際、ユダヤ人信者らは指導者である主の兄弟ヤコブを失い、キリストの命令を守ってエルサレムから離れたため、攻防戦には加わりませんでした。それゆえ、ユダヤ人たちは共に攻防戦で戦わなかったユダヤ人信者の行為を裏切り行為とみなしたこと、そして「イエシュアこそメシアである」という、当時の宗教指導者にとって受け入れがたい冒涜であることを彼らが信じているため、この祈りが付け加えららのではないかと言われています。そのため、今までシナゴーグに集っていた古代のメシアニック・ジューたちはシナゴーグから追い出されてしまい、彼らは自分たち独自のシナゴーグ、集会所を持つ必要が出てきました。恐らくガリラヤ地方に住んでいたユダヤ人信者は、その地にいられなくなり、歴史の彼方へ去ってゆくメシアニック・ジューたち(1)で述べたペラ、コカバ、コエレ・シリアへ移住していったものと思われます。 キトス戦争(第二次ユダヤ戦争と言う歴史家も) 紀元115-117年の間、ローマ帝国内のキプロス、リビア(キュレネあるいはキレナイカ)、エジプト(アレキサンドリア)、メソポタミア、ユダヤ地方でユダヤ人による反乱が勃発しました。原因はギリシャ系住民との紛争でした。当時、トライヤヌス帝がパルティア王国攻略の際後方でユダヤ人の反乱が生じ、ローマ帝国各地でローマ軍の警備が手薄になったところで反乱が拡大しましたが、最終的にはローマ軍の手によって鎮圧させられました。シリアのキレナイカでは、首謀者であったルカス(Lukuas(注1)は、自ら「王」を名乗り、反乱を組織しギリシャ、ローマ系の神殿を次々に破壊し、ギリシャ系、ローマ系の住民と交戦し殺害しましたが、ルシウス将軍率いるローマ軍によって鎮圧、ルカスはエジプトのアレキサンドリアへ移動しそこでも抗戦を続けましたが、トライヤヌス帝が別動隊を動かして鎮圧させました。ルカスはユダヤ地方に逃れましたが、そこで処刑されました。キプロスではアルテミオン(Artemion)というローマ名を持つユダヤ人の指導により反乱が組織され、大勢のキプロス人を殺害しました。しかし、パルディア戦役に参戦したローマ軍団によって鎮圧させられ、生き残ったユダヤ人を追放し、ユダヤ人のキプロスへの立ち入りを禁止しました。これを第二次ユダヤ戦争と呼ぶ歴史家もいるようです。 注1:歴史家ディオ・カシウス(Dio Cassius)著のHistoriaによりますと、キレナイカでの反乱首謀者はアンドレアス(Andreas)という人物と記録している。Lukuasと同一人物かどうか不明。 キトス戦争と呼ばれるのは、シリアで鎮圧にあたったルシウス・キエタス将軍(Lusius Quietus )の「キエタス」が「キトス」に変化し、その名が付けられたためです。(Wikipedia "Kitos War"より引用。) また、この時のユダヤ人の反乱時、ユダヤ人キリスト者は、「ユダヤ教信仰に対する裏切り者」として、他の異邦人と一緒に殺害されたことが記録されています。(Dio Cassius, Eusebiusなどの記録より) バル・コクバの乱と第二次ユダヤ戦争の終結 公式に第二次ユダヤ戦争と呼ばれているバル・コクバの乱が起こったのは紀元132年から136年の間でした。伝統として、紀元135年のアヴの月9日に終結したということになっています。それまで、キトス戦争も含めて、各地でユダヤ人による反乱は大小にかかわらず勃発していましたが、それが132年、バル・コクバの登場によって大きな戦争となりました。 当時の皇帝ハドリアヌスが紀元130年、中東を巡幸している時、荒れ果てていたエルサレムを再建し、ユダヤ人が再び住めるようにしようとしましたが、彼はエルサレムを「アエリア・カピトリーナ(Aelia Capitolina)」と名を変えようとしていること、割礼の禁止すること、そして神殿が建っていたところにユピテル神殿を建てるということがユダヤ人に知れ渡り、ユダヤ人が激高しました。 皇帝はエルサレムを「アエリア・カピトリーナ」に改称したのは、紀元131年で、廃墟となったエルサレムを再建する際、当時のその地域の総督であったティネイウス・ルフス(Tineius Rufus)が起工式を行いました。「アエリア・カピトリーナ」に改称した記念のコインが紀元132年に発行されています。 注:「アエリア・カピトリーナ」に改称された年は、コインの存在から131年あるいは132年と言われていますが、実際いつ改称されたのか諸説あり、はっきりしていません。参考:http://sites.google.com/site/provincialcoins/(アエリア・カピトリーナのコインの写真と説明あり) その時、シメオン・バル・コシェバ(Shim'on (Simon) Bar Koseba)という男が、「自分はメシアである」と宣言し、名をバル・コクバ(Bar Kochba:星の子)とし、当時のユダヤ教最高指導者であったラビ・アキバ・ベン・ヨセフ(Akiba ben Yossef )が支持を表明しました。イエスが登場する前からユダヤ人たちは救世主が現れて自分たちが異教徒から解放されるという「救世主期待論」というのがあり、バル・コクバの登場により、再びユダヤ人は反乱の戦いを起こすこととなりました。 ラビ・アキバの支持の元、バル・コクバは2年半政治的、軍事的指導者の地位につき、紀元132年、エルサレムを奪還することに成功しました。しかし、ハドリアヌス帝はドナウ地域の駐留軍を差し向けて鎮圧に当たらせ、紀元135年エルサレムはローマ軍に奪われ、生き残りはエルサレム南西にあるベティル(Betar)の要塞に逃げ込み、抗戦を続けましたが紀元136年、バル・コクバは戦死し、ラビ・アキバは首謀者として捕らえられ処刑されました。ベティルでの戦いが終結し、バル・コクバが戦死した日が、紀元70年エルサレムが陥落した同じ日である「アブの月9日」であったと言われています。 ハドリアヌス帝はユダヤ暦を廃止させ、その地にいたユダヤ教指導者を処刑し、エルサレムをアエリア・カピトリーナと名前を変え、ユダヤ地方を「シリア・パレスティーナ」とペリシテ人の名を取って改名し、ユダヤ人をその地から追放し、一切入れないようにしました。現在の「パレスチナ」という名称は、ハドリアヌス帝の命名が発祥と言われています。紀元300年代になって、キリスト教がローマ帝国で公認された頃、アブの月9日(エルサレムが陥落した日)のみ、ユダヤ人が神殿の壁のある場所(西の壁、あるいは嘆きの壁)に立ち入ることが許可されました。 ここに、第二次ユダヤ戦争は終結し、エルサレムは1967年までの1832年間、ユダヤ人の手から離れてしまうのです。 現在のエルサレム旧市街は、ハドリアヌス帝によって再建させたローマ式都市設計が元となっていると言われています。(ダマスカス門から通じているまっすぐな中央通りはその名残。) この戦いでもユダヤ人信者は、イエシュアをメシアとして信じていることから、バル・コクバに味方することはできず、戦いには加わりませんでした。さらに、バル・コクバは割礼をせずにエルサレムに入ることを禁じ、それに従わない者は死刑としました。当時エルサレムにいたキリスト者は割礼をせず、洗礼で割礼の代用としていたため(注)、バル・コクバは割礼のないキリスト者を弾圧し、場合によっては処刑しました。ユダヤ人信者はバル・コクバの乱に参加しなかったを裏切り者とし、エルサレム在住の異邦人キリスト者(あるいはヘレニズム系のユダヤ人信者など)は、無割礼であったためエルサレムから追い出され、あるいは処刑されました。この戦いにおいて、古代メシアニック・ジューと古代ユダヤ教徒とは、完全に断絶してしまいました。そして、キリスト教徒とユダヤ教徒の断絶をある意味決定づけ、それが現在に至る亀裂となったのです。 注:当時エルサレムにいたキリスト者:異邦人信者、割礼をやめてしまったヘレニストのユダヤ信者、そしてナザレ派の信者がいました。ナザレ派の信者は割礼をしていましたが、バル・コクバの乱に参戦しなかったため追放あるいは処刑され、無割礼であった異邦人信者とヘレニストのユダヤ人信者も同様でした。 バル・コクバの乱の後、ローマ帝国は、エルサレムにおいて異邦人教会の存続を許し、異邦人司祭(ビショップ)マルコスの管理下に置きました。しかし、ユダヤ人信者はエルサレムに入ることができず、離散の地でのシナゴーグで礼拝することも許されなくなり、独自の共同体で固まりました。 その後のユダヤ人信者の動向 第二次ユダヤ戦争に至るまで、元々エルサレム教会のユダヤ人信者らは、イエスの親族を指導者としていました。主の兄弟ヤコブの殉教後、クレオパスの子シモン(イエスやヤコブの従兄弟と言われている)、ジャスタス、ザカエウス、トビアス、ベニヤミン、ヨハネ、マティアス、ピリポ、セネカ、ジャスタスII世、レビ、エフライム、ヨセフ、ユダなど (Messianic Judaism by Dan Cohn-Sherbokより引用。)が歴代のビショップ(主教、あるいは司祭)であったといわれています。第二次ユダヤ戦争以降のユダヤ人信者の指導者の名は分かっていません。 ユダヤ人信者と異邦人信者との分派もこの頃顕著となり、ユダヤ人信者はユダヤ人としての生活様式を維持したままの信仰生活を送っていましたが、異邦人信者は独自の教義、規定を設け始めました。第二次ユダヤ戦争の結果が一つの理由となり、ユダヤ教に対抗するために、"Adversos Judaeos"(ユダヤ教に反対する)教義を持ち始めたのはこの頃です。 ユダヤ信者たちが2世紀からイスラム教が起こる6世紀までどう過ごしていたのかほとんど記録がなく、エピファニウスがわずかに述べている程度です。エピファニウスによりますと、ユダヤ人信者は前述のペラ、コカバ、コエレ・シリアの周辺一帯を始め、ハウラン(注1)、バタニア(注2)、デカポリス(注3)、そしてメソポタミア地方へと散って暮らしていたといいます。彼らは「ナザレ人」と呼ばれ、独自の共同体、独自のシナゴーグ、礼拝形式はユダヤ教と切り離されてしまったため異なったものを用いており、農業を生業としていたと記録しています。 注1:ハウラン(Hauran:現在のヨルダンとシリアの境界付近にあり、ゴラン高原に存在する古代の町。ローマ時代はAuranitisと呼ばれていた。エゼキエル47:16-18に記述がある) 2世紀の終わりに、ユダヤ人信者は二つのグループに分かれました。その頃、ユダヤ人信者は「エビオン派(Ebionites)」と呼ばれており、エビオンとは「エヴィオニーム(Evionim)貧しい者」というヘブライ語から付けられた名称であったようです。そのエビオン派は二つの集団に分けられ、一つはキリストは処女から生まれたことを信じており、もう一つはキリストは通常の人間のように生まれたのであって、処女から生まれたことを信じないグループでした。シリアにいたユダヤ人信者は異邦人信者と合流し、シリアのユダヤ人、異邦人信者らはユダヤ的、使徒からの教えを守り、独自のキリスト教の風習を作り上げていきました。西方教会よりも東方教会がユダヤ性を色濃く残していたのは、このような経緯があったからだと言われています。 エピファニウスのPanarionによりますと、ナザレ派の人々、すなわちユダヤ人信者は以下の特徴があったと記録しています: 1) 彼らは旧約、新約聖書を用いていた。 エピファニウス自身ユダヤ人でしたが、彼は異邦人キリスト教界の指導者となり、後に歴史家となりました。彼はナザレ派の流れを汲むユダヤ人信者との直接の交流はなく、又聞き、間接的に得た情報を元に上記の情報を記録したようです。 一方で、異邦人教会に合流するユダヤ人信者とも決別し、上記のユダヤ的生活風習を維持するグループは、ユダヤ教とも異邦人主流のキリスト教とも決別し、自分たちだけで固まって暮らし、外部との一切の交流を絶ちました。彼らはグノーシスの思想に影響され、「キリストは人から生まれ(処女受胎を信じない)、選ばれて神の御子となり、キリストの霊は鳩のように彼に留まりキリストとなった。」と信じていたとエピファニウスは記録しています。この集団がどうなったのかほとんど記録がなく、6世紀にはイスラム教の中に埋没してしまったものと考えられています。 ユダヤ性を捨て去る宣誓 4世紀に入り、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した頃、キリスト教界に新たな動きが見られました。キリスト教徒によるユダヤ教徒そして、ユダヤ人信者に対する迫害です。パレスチナ地方に住んでいたユダヤ教徒は、ペルシャやメソポタミヤ地方へ移住しました。ユダヤ人の東方への移住によって、ティベリア(注1)やセッフォリス(注2)に存在していたユダヤ教の学問所よりも、スラ(注3)やプンベディサ(注4))が学問所としての地位や権威は優勢となりました。 注1:ティベリア(Tiberias:ガリラヤ湖畔西側にある街。現在も存在する) キリスト教会は、ナザレ派を「異端」とし、ユダヤ人信者がキリストを信じる者となる場合、いかなるユダヤ的風習を捨て去る宣誓を行わなければならなくなりました。その宣誓とは以下のようなものでした: 「私はヘブライのすべての風習、儀式、律法、種なしパン及び小羊の犠牲を破棄し、ヘブライのすべての例祭、犠牲、祈り、聖水散布、清浄規定、聖化、そして罪の贖いの捧げ物、そして断食、新月、安息日、迷信、聖歌、詠唱、そしてしきたり、シナゴーグ、さらにはヘブライの食事や飲み物について、一言、私はユダヤ的なものすべて、すべての律法、儀式、風習を完全に破棄します。(後略)」(引用元:Parks, James The Conflict Of The Church And The Synagogue Atheneum, New York, 1974, pp. 397 - 398.の一部和訳。コンスタンティノープル教会での宣誓から) 4世紀以降、ユダヤ人信者はユダヤ的風習を守って信仰生活を続けることが大変困難になり、上記の宣誓を経てキリスト教徒となる人々がいました。その代表的な人は、以下の通りです: 前述のエピファニウス(Epiphanius:紀元367-404年):彼はパレスチナ地方で生まれ、後キリスト教徒となり、キプロスのコンスタンティア(Constantia)の主教となりました。彼はPanarionという書物を書いています。 トレドの大主教ユリアン(あるいはジュリアン"Julian")。スペイン・トレド生まれのユダヤ人で、紀元686年西ゴート族(Visigoth)のエルヴィジオ王(King Ervigio)の要求に応え"De Comprobatione Aetatis Sextae Contra Judaeos"を上梓しました。この書物には、ユダヤ教が創世から6000年が経たないとメシアが来られないという主張に反論するものでした。 このように、「ナザレ派」あるいは「エビオン派」としての、共同体であるユダヤ人信者の消息は4世紀前後に絶ってしまいました。恐らく、彼らが住んでいたという前述の街(現在はシリア、ヨルダン、イラク、トルコといったイスラム主流国家の中にあるので、古代ユダヤ人信者に関する発掘はほぼ不可能な状態)を掘り起こせば、もしかしたらヘブライ語で書かれた福音書が出てくるかもしれません。 次に、中世ヨーロッパで大活躍したユダヤ人キリスト教徒(正確に言うとカトリック教徒)の活躍について述べて行きたいと思います。 参考資料 |
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