| 歴史の彼方へ去ってゆくメシアニック・ジューたち(1) 主の弟ヤコブの殉教と第一次ユダヤ戦争 |
二つの大きな悲劇:主の兄弟ヤコブの死とエルサレム陥落に始まるユダヤ人大離散 初代教会のメシアニック・ジュー:誕生当時の教会はどんな様子だったのかで述べたように、初期の信者たちの大半はユダヤ人でした。しかし、徐々に使徒サウロ(ローマ名はパウロ)、使徒シモン(ローマ名はペテロ)や、ギリシャ語を話すユダヤ人信者、そしてコルネリオを始めとする異邦人信者を通して、キリストの福音は小アジア(今のトルコやシリア)を経て、西へ、西へ、ローマ帝国全域に広がって行きました。 キリスト信者の指導層は最初全員ユダヤ人信者、今でいうメシアニック・ジューが占めていましたが、それが大きく変化するのは、二つの大きな悲劇がユダヤ社会を襲ったことが大きな原因と思われます。それは、主の兄弟ヤコブの死とエルサレム陥落です。最初に、主の兄弟ヤコブについて述べたいと思います。 主の兄弟ヤコブ 主イエスには多くの弟と妹がいたのはご存知でしょうか。ただ、主イエスを生んだ母マリアを「聖母」として敬う伝統の強いカトリック教会やギリシャ正教、シリア正教、ロシア正教などの古い歴史のある教会は、母マリアはイエスだけを産み、その処女性は損なわれなかったとし、その他の「弟や妹たち」は異母兄弟である、あるいは従兄弟であるという説を採っています。(聖母マリアの神性化は2世紀に進み、エウセビオス((Eusebius)紀元260-340)を始めとする3世紀の教父らは異母兄弟説を採り、そしてジェローム((Jerome)紀元348-420)が「ヤコブは主の従兄弟である」という説を立てたのは4世紀頃と言われています。) (マルコ6:3) ここでは母マリア(ヘブライ表記は「ミリアム」)は、主イエスを産んだ後、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、そして少なくとも二人以上の娘を産んでいるという、主イエスには実弟4名実妹2名以上いるという、歴史的に標準となっている説の元、話を進めて行きます。 主の兄弟ヤコブは「小ヤコブ」と言われており、それは以下のみことばから引用されています。 (マルコ15:40) 福音書によりますと、ヤコブは自分の兄イエス(ヘブライ表記は「イエシュア」)が救い主であることは、十字架の死と復活を経るまで確信が持てなかったのですが、使徒行伝では、彼は「エルサレム教会」の指導者としての立場に立っています。しかし、主の弟であるヤコブの取扱いは新約聖書でもあまり多くなく、歴史的に教会はヤコブをペテロやパウロほどの頻度で取り上げることもなく、彼の扱いは驚くほど少ないのです。それには、ヤコブがどういう人であったかに注意しなければなりません。 ヤコブはユダヤ人の中のユダヤ人であった James The Brother of Jesus (Robert Eisenman)という本によりますと、ヤコブは紀元40-62年において、キリスト信者の最高指導者であり、「義の人ヤコブ(Zaddik-ザディク(ヘブライ語)、Dikaios-ディカイオス(ギリシャ語)、Justus-ジャスタス(ラテン語)」と呼ばれていました。歴史家であり司祭であったエウセビオス(注)は著書「教会史(Ecclesiastical History)において、こう述べています。 「ヤコブは、彼が最高の徳を持つとされるがゆえに先人(あるいは教父ら)によって「義なる人」と呼ばれており、エルサレム教会の最初の主教(Bishop)の地位に任命された。」(James The Brother of Jesus p166より) 注:エウセビオス((Eusebius)紀元260-340年):カイサリアの主教(司教)で、ギリシア教父の一人。『教会史』を記して初期キリスト教の資料を残したことで有名。また皇帝コンスタンティヌス1世の信頼あつく第1ニカイア公会議の主導者の一人となった。(Wikipedia「エウセビオス」) ヤコブは初期教父らによって「傑出した義なる人」と幾度となく表現されており、最大級の賛辞を送っています。彼は「義の教師」として尊敬されていました。エウセビオス、ジェローム、そしてヘゲシッポス((Hegesippus)紀元90-180年)らは、ヤコブは「母の胎の時から聖であり、ナジル人であった。」と表現しています。すなわち、洗礼者ヨハネのように、生まれながらの「ナジル人」であったと言われています。(James The Brother of Jesus p238より)ナジル人に関する規定は以下の通りです。 (民数記6:1-8) ヤコブは「聖なる者」として、菜食主義であり、ぶどうで作られた食物、飲み物は一切口にせず、また動物の血に触れたり、動物の死骸や人の遺体に近づくことはなかったというナジル人としての人生を全うしました。また、禁欲的な生活を送り、人々に奇跡をもたらし、多くの人が彼の服のふさに触れたいと思ったほど、大変評判の高い人であったと言われています。 ヤコブの殉教 紀元62年当時、ローマ帝国支配下においてイスラエル・パレスチナ地方は内紛の絶えない時代でした。ヘロデ一党を始めとするヘレニズム系のユダヤ人(主に高い地位にいる人々)、ヘレニズム系の一派に組みするパリサイ派やサドカイ派グループと、ユダヤ人の独立を勝ち取ることを願い、ローマ人やギリシャ人との接触のないパリサイ派やサドカイ派、エッセネ派などのグループとに分かれていました。さらにユダヤ独立を強く求める戦闘的なシカリ派や「ゼーロータイ」と呼ばれる熱心党員などが各地でテロ活動を行っており、さらにイドメヤ人やサマリア人などのユダヤ主流派から離れる人々の抗議行動など、社会は非常に混乱を極めていました。その中で、ヤコブは一般大衆や、とりわけ聖書に忠実たろうとしたパリサイ派やサドカイ派、エッセネ派、ユダヤ人キリスト信者(この時キリスト信者はまだユダヤ人が大半を占める)らから大きな期待と尊敬を集めていました。 そんな中で、ヘレニズム系のパリサイ派やサドカイ派は、ヤコブが反ローマ的指導者として、かつてのユダ・マカバイ(紀元前167年、当時イスラエル・パレスチナ地方を支配していたシリアのセレウコス王朝に対する反乱、独立戦争の指導者)のように反乱戦争を起こすのではないかという恐れ、「義の人」と絶大な人気を誇る彼に対する嫉み、そして一番の理由は「人が神と宣言することは冒涜」という考え方がユダヤ教にあるゆえに、大祭司アンナス(洗礼者ヨハネとイエスの処刑時の大祭司であったアナヌスの息子の一人)によって、ヤコブは処刑されました。 大祭司アンナスの取り巻きのサドカイ人や一部のパリサイ人らは、ヤコブを神殿の頂上に立たせ、彼をそこから突き落とし、まだ息がある中で彼を棍棒で撲殺し、神殿の下にあるケデロンの谷へと遺体を投げ落としました。 ヘゲシッポスの記録によりますと、ヤコブの死は以下のようだったそうです: 「神殿の頂上に立てば十分に高いので、人々はあなたをはっきり見ることができ、あなたの言葉は人々に十分聞こえるでしょう。過越の祭りのためにすべての部族が集まり、多くの異邦人も集まってきています。」そう律法学者やパリサイ人は(ヤコブに向かって)言い、ヤコブを神殿の頂上に立たせ、そして彼に向かって叫び(懇願し)ました。「ああ、義なる人よ!我々はあなたの言葉に従うであろう。民は道を失って十字架に付けられたイエスの後を追ってしまったのだ。だから述べよ。イエスの門とは何であるのか!」ヤコブは叫んで答えました。「人の子についてなぜあなたがたは問うのか。主は天において大いなる力(の方)の右の座に着いておられ、そして天の雲にのってやがて来られるであろう!」 こうして、彼らは上って義なる人をそこから投げ落とし、互いに言い合った。「義なるヤコブを石で打とうではないか。」そして、彼らはヤコブに向かって石を投げつけ始めた。ヤコブを落としただけでは死ななかったからである。(James The Brother of Jesus p450より。ヘゲシッポスの記録より。) アレキサンドリアのクレメンツ((Clement)紀元150-215年)は、ヤコブは石打ではなく撲殺されたと記録しています。 「ヤコブの死について、彼は頂上から投げ落とされ、棍棒で撲殺された。」(James The Brother of Jesus p466より。クレメンツの記録より。) エピファニウス((Epiphanius)紀元367-404年)は、こう続けています。 神殿の頂上からヤコブを真っ逆さまに投げ落とした後、棍棒で頭を殴り倒し、そして彼を投げ落とした。不法行為を一切していないヤコブはひざまずき自分を投げ落とした者のために祈り、神に懇願した。「どうか彼らをゆるしてやって下さい。彼らは何をやっているのか分からないのです。」 ヤコブの処刑により、強い求心力を持っていた指導者ヤコブという存在を失った初代教会は、ヤコブの処刑後すぐに使徒たちや弟子たちが集まり、ヤコブの後継者である指導者を選びました。それは、イエスの従兄弟にあたるクレオパスの子シモンという人物で、彼もまたヤコブに続いてイエスの血族でした。(James The Brother of Jesus p394より) エウセビオスによると、「義なる人ヤコブ」の死によって、エルサレムの崩壊が始まったという、ヨセフスの「ユダヤ戦争」からの記述を取り上げ、初代の教父たちもヤコブの死に始まる古代ユダヤ社会の崩壊を述べています。 歴史家ジェロームはこう述べています。 「ヨセフスは、ヤコブが非常に聖なる人物で人々から高い評判を得ており、言い伝えとして彼の死がエルサレムの崩壊へとつながったと信じられていることを記録している。」(James The Brother of Jesus p234より) 後年、ユダヤ社会の中でも、信者たちの間でも高く尊敬されていたヤコブは、教会がユダヤ人信者を失う過程において、彼の「ユダヤ人」さ故に、(あるいは、彼が「ユダヤ人すぎる」ため)ローマ市民でありパリサイ人であったサウロより、またローマで殉教したペテロよりも重要視されなくなり、「無視される」あるいは「軽視される」過程を、初期の教父たちによって、意識的に、あるいは恐らく大半は無意識的に進められてきたことが、James The Brother of Jesusに述べられています。 ヤコブの死によって、初代教会の使徒や弟子、信徒らはエルサレムの滅亡を予感し、徐々にその拠点を移し始めます。そして、ヤコブ殉教の4年後である紀元66年、ユダヤ戦争が勃発します。 ユダヤ戦争勃発 Wikipedia「ユダヤ戦争」の「開戦」から引用します: 開戦までの経緯 ヘロデ大王の死後、ユダヤ属州はローマの総督によって直轄されていたが、大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側にすりよって41年にユダヤ王として称号を受けることに成功し、ユダヤの統治をゆだねられた。このアグリッパ1世が44年に病死すると、再びユダヤ地方はローマの直轄地となった。当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策を示しているが、多神教文化であった地中海世界の中で、一神教を奉ずるユダヤは特殊な文化を持った地域であったため、支配されていたユダヤ人のローマへの反感は日増しに高まった。 開戦 フラウィウス・ヨセフスによると、「ユダヤ戦争」が勃発した発端はカイサリアにおけるユダヤ人の殺害であったという。即ち、当時のユダヤ属州総督フロルスがエルサレムのインフラ整備のための資金として神殿の宝物を持ち出したことにあったといわれている。これをきっかけにエルサレムで過激派による暴動が起こった。ユダヤ側の指導者は、シモン・バル・ギオラ(Simon Bar-Giora)、ギスカラのヨハネ(John of Gischala)、エルアザル・ベン・シモン(Eleazar ben Simon)らと伝えられるが、いずれも強硬派・原理主義者に属した点も事態過激化への呼び水となった。 フロルスは暴動の首謀者の逮捕・処刑によって事態を収拾しようとするが、逆に反ローマの機運を全土に飛び火させてしまう。シリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、反乱軍の前に敗れてしまう。事態を重く見たネロ帝は将軍ウェスパシアヌスに三個軍団を与えて鎮圧に向かわせた。 ウェスパシアヌスは息子ティトゥスらと共に出動すると、エルサレムを攻略する前に周辺の都市を落として孤立させようと考え、ユダヤの周辺都市を各個撃破していった。このガリラヤ攻略戦のさなかに投降してきたユダヤ人武将こそがヨセフスであった。こうしてウェスパシアヌスらはユダヤ軍を撃破しながら、サマリアやガリラヤを平定し、エルサレムを孤立させることに成功した。 エルサレム陥落 熱心党員を始めとする過激派たちによって紀元66年エルサレムは支配され、正統な支配者や指導者を失って乱暴狼藉の限りを尽くす彼らに対し、ネロ帝が紀元68年に自殺し、その後の混乱を経て紀元69年に皇帝となったウェスパシアヌスは息子のティトスに三個師団を与えてエルサレムを包囲させました。時は紀元70年3月、「過越の祭り」が行われていた頃で、大勢の巡礼者がエルサレムに集まっていました。 最初、ヨセフス(元々ユダヤの戦闘指揮官であったがローマ軍の捕虜となり、その後ティトスの幕僚となる。後年、「ユダヤ戦記」など、重要な歴史文書を残す)が城壁の外から開城すれば命を助けようと説得を試みたが、城壁から放たれた矢で負傷してしまいました。 その後ローマ軍はエルサレムの城壁周りを取り囲み、城から逃げてくる人を捕らえては十字架にかけてさらしものとし、処刑する光景を城壁内にいる人々に見せました。再度ヨセフスによる説得を行いましたが功を奏しませんでした。城の中にいる大勢の巡礼者は、徐々に食料が足りなくなり、餓死する者、食べ物をめぐって争い同士討ちを行う者と、大変な混乱が起こりました。ヨセフスの「ユダヤ戦記」によると、一般市民は逃げたくとも、ユダヤ人過激派らが逃亡する者を裏切り者として処刑したため、逃げられなかったと記録しています。 5月中旬、ティトスの命令一下、破城鎚で城門を破らせ、ローマ軍は城壁内に侵入しました。ユダヤ人たちはアントニウス要塞や神殿に立てこもって抵抗を続けました。ティトスは最初神殿を破壊する意図はなく、そこを占領してローマのパンテオンにしたいと思っていましたが、場内での乱闘によって火が放たれ、その火が非常な早さで場内を駆けめぐり、神殿にも火がつき、勢いよく燃えさかりました。8月中旬、ユダヤ歴のアヴの月(第5月)の9日、神殿は陥落しました。(Wikipedia "Siege of Jerusalem"を一部抜粋して要訳)ヨセフスによりますと、神殿の下のケデロンの谷は、犠牲者の遺体で谷が埋まったと記録しています。 エルサレム陥落によって、100万人の犠牲者と、10万人の捕虜という大変な数字をヨセフスは記録しています。(犠牲者の数については諸説あり、実際はもっと少ない数(10万人前後の犠牲者と1万人前後の捕虜)ではなかったか、という説もあります。) この時、ユダヤ人キリスト信者は、イエスの以下の言葉に従い、エルサレムから離れたと言われています。 (ルカ21-22) 彼らがどこに逃げたか諸説はありますが、 ペラ(注1)、コカバ(注2)、そしてコエレ・シリア(注3)に拠点を移したと言われています。(エピファニウスのPanarion 29章より) 注1:ペラ(Pella:下記地図参照)
エルサレムを失ったユダヤ人たち、そして、初期メシアニック・ジューたちの足跡をさらに辿ってみましょう。「歴史の彼方へ去ってゆくメシアニック・ジューたち(2)」へ飛ぶ。 参考資料 |
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