初代教会のメシアニック・ジュー
誕生当時の教会はどんな様子だったのか

原始キリスト教の信者(メシアニック・ジュー)たち:

紀元1世紀の原始キリスト教会は、ほぼ全員ユダヤ人信者で占められており、当時はキリスト教という別の宗教ではなく、「ユダヤ教ナザレ派」という、ユダヤ教の一派として見られていました。ですから「原始キリスト教」と呼ぶのは少し語弊があるかもしれません。

当時、イスラエル・パレスチナ地方には、以下の人々が住んでおり、その中でキリストを信じる者がいました:

1) パリサイ派と呼ばれる律法学者を始めとする、教育水準が高く、地位的にも高い人々で、後にタルムードやミシュナーなど口伝律法を編纂し、現代のユダヤ教の下地を作った人々。(パウロやアリマタヤのヨセフなど。)また、パリサイ派のの分派として、「敬虔派(ハシディーム)」と呼ばれる賢者の集団も存在していたと言われています。さらに、パリサイ派はトーラー(モーセ五書)の解釈によって、「シャンマイ派」と「ヒレル派」など、複数の学派に分かれていたようです。(「キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界」より)

2) サドカイ派と呼ばれる、神殿祭司の人々。神殿祭祀を司る祭司と、紀元前165年前後に起こったギリシャ−シリア系セレウコス王朝に反旗を翻し、ユダヤ独立を勝ち取ったハスモン王朝につらなる人々を指します。ハスモン王朝は神殿の大祭司職も兼務していましたが、レビ人、アロンの家系ではない人々でした。使徒6:7に、「多くの祭司たちが次々に信仰に入った」とあります。ただし、神殿崩壊の後、サドカイ派の人々は消滅し、現在ではサドカイ派の手による資料はまったく残っていない、あるいは発見されていない状態です。(「キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界」より)

3) エッセネ派と呼ばれる独立した共同体を作った人々。彼らは男性ばかりで独身を通し、禁欲的な生活を行い日々糧を得る労働と聖典の書き写しなどを行っていました。最も有名なのは、死海のほとりにあるクムランの共同体で、「死海文書」を作成した人々です。彼らの中にも、キリストを信じた人々もいたものと思われます。(エッセネ派の人々で代表的なのはバプテスマのヨハネとその弟子たちなど。)

4) 一般庶民で、労働者階級の人々。(農業や遊牧、漁師や石工などの労働者。)イエスの弟子たちの大半は労働者階級でした。

5) 熱心党員(ゼロテ党、ゼーロータイ)やシカリ派という、ユダヤ民族独立を切望するユダヤ教の政治的宗教集団。テロリズムをもって支配者へ抵抗する戦闘的な集団でした。イエスの弟子の一人シモン(熱心党員シモン:マタイ10:4、マルコ3:18、ルカ6:15参照)がこのグループに所属していました。

注:イスカリオテのユダについては諸説あり、彼は「シカリ派」のユダ、という説と、「ケリヨテ(アモス2:2)」ヘブライ語で「イス・カリオット(Ish Kariot)」と呼ばれるユダヤ地方南部の町出身である、という説があります。

6) ヘレニストたち。ギリシャ語を母国語とし、あまりヘブライ語を話さないユダヤ人で、ユダヤ教を守り続けながらギリシャ文化の中で暮らしている人もいれば、ほぼギリシャ文化に同化してしまっている人など幅広く存在していました。使徒6:1-6に、ギリシャ語を話すユダヤ人で7名、執事が任命されています。(ステパノ、ピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者(元異邦人)ニコラオ)

7) 「神を畏れる異邦人」と呼ばれた、ユダヤ教に対して好意的な異邦人(ギリシャ、ローマ人たち)を指す。彼らはユダヤ教には改宗していませんが、ユダヤ教徒とよい関係にあり、ある程度聖書の知識がある人々と思われます。ルカ7:1-10にある百人隊長がその例です。後に異邦人で初の信者となる百人隊長コルネリオとその家族なども含まれます。

8) 改宗者たちと呼ばれた、ユダヤ教に改宗した異邦人たち(ギリシャ、ローマ人たち)を指す。使徒2:11、6:5、13:43に記述があります。

9) サマリア人。紀元前721年にアッシリア王サルゴン2世が北イスラエルを征服し、そこに住んでいた北イスラエル人住民を捕囚にし、指導的立場に人々もアッシリアの地に捕らえ移しました。そしてアッシリア人を北イスラエルに移住させ、そのアッシリア人と残っていた北イスラエル人(特に農民は残されたので)との間に生まれた子孫をサマリア人と呼びます。使徒8:1-8に、ピリポがサマリア諸地方でキリストを述べ伝え、ある町では大勢の人が癒されたため、「その町に大きな喜びが起こった」とありますので、恐らく大勢のサマリア人が信仰に入ったものと思われます。

10) 異邦人たち。ギリシャ人、シリア人、キプロス人、エジプト人など、周辺諸国から行き交っている人々。彼らの中からも信者が誕生して行きました。(使徒10章以降続々と誕生する。)

当初の信者たちは、これほどバラエティーに富んだ人々が、原始キリスト教会を形成していたのです。当時の信者たちの指導層を担っていたのが、大きく分けて三グループいました:

1) イエスの弟ヤコブやユダを指導者とする、ユダヤ教に根付いた信仰を維持した人々で、「エルサレム教会」と呼ばれた集団でした。この集団の中には、恐らくパリサイ人、サドカイ人、エッセネ人、熱心党員など、ユダヤ人でユダヤ教に熱心な人々が中心となり、後に「異邦人もユダヤ人のように、割礼を受け、律法を守らなければならない」と主張した「ユダヤ化主義者」が恐らく大勢いたものと思われます。(使徒15章でヤコブは、「異邦人は割礼せず、ノアの契約を最低限守らせて信仰生活をさせる」という決断をしています。これが異邦人がイエスへの信仰を可能とし、促進させました。)

エルサレム教会の指導者で記録に残っているのは:

主の弟ヤコブ、主の弟ユダの孫(名前不詳)、主の従兄弟クレオパスの子シモン、ジャスタス、ザカエウス、トビアス、ベニヤミン、ヨハネ、マティアス、ピリポ、セネカ、ジャスタスII世、レビ、エフライム、ヨセフ、ユダなど (Messianic Judaism by Dan Cohn-Sherbokより引用。)エルサレム教会は、紀元62年、イエスの弟ヤコブがサドカイ派の人々から殺されてしまい、さらに紀元70年にエルサレムが陥落してしまうので、急激にその力を失い、指導層がそこからユダヤ教主体の信者から、異邦人主体の信者へと移ります。

2) ヘレニスト系ユダヤ人と改宗者(ユダヤ教への)を中心とする指導者たち。彼らはギリシャ文化、ローマ文化にある程度適応しつつユダヤ教には熱心であり、改宗者はユダヤ教へと改宗した異邦人なので、恐らく律法には熱心であったでしょう。彼らの中にも「ユダヤ化主義者」がある程度いたと思われます。

3) 異邦人信者や、ヘレニズムに完全に同化しギリシャ語しか話せないヘレニスト系ユダヤ人など。最初は恐らく少数しか存在しなかったと思われます。

初代教会のユダヤ人信者の数:

2007年3月に発行されましたシオンとの架け橋による「預言が成就しないとき」(ヨセフ・シュラム師講演速記録)から引用します:

多くのクリスチャンは、ユダヤ人たちが福音を受け入れなかったと考えています。ユダヤ人たちの心は硬く、目は閉じられているから、福音を全然受け入れなかったが、異邦人は喜んで受け入れたというのです。そこで、使徒言行録で救われたユダヤ人と異邦人の数を、試しに比較してみましょう。

まず、ユダヤ人の数です。ペンテコステの日に救われたのは使徒2章には3000人と書いてありました。

余談ですが、この数は偶然ではありません。ペンテコステがシナイ山における律法の授与と対応していることは、すでにお話ししました。シナイ山からモーセが下りてきたとき、何を見たでしょうか。人々は金の子牛を礼拝していましたね。この反逆の罪によって殺されたのは何名だったかご記憶でしょうか。3000人でした。エルサレムで二回目にトーラーが与えられた時、つまり聖霊が与えられた時に、シナイ山で失われた魂と同じ数の魂が救われることとなったのです。

さて、さらに4章を読むとペテロとヨハネの説教を聞いて5000人が信じたとあります。これで合計8000人です。そして、6:1ではそのころ弟子たちの数が何倍にも増えたと書いています。「何倍にも」ですから、少なくとも2倍にはなったでしょう。8000人の2倍ですから16000人以上です。そして、21:20になると「幾万人ものユダヤ人が信者になって」という記述があります。万の複数形ですから、少なくとも20000人です。これはエルサレムだけのユダヤ人ビリーバーの数です。

教会史家エウセビオスの記録によれば、当時エルサレムでは市の人口の3分の1に相当する40000人のユダヤ人がイエスを信じたといいます。今日のアメリカを含めたユダヤ人ビリーバーよりも遥かに多い。神殿崩壊前夜に、すでにこれだけのビリーバーがいたとは大変なことです。

エウセビオスの記述は別にして、使徒言行録の記事だけでもすごい数です。この人たちはどういう人々だったでしょうか。ヤコブたちはパウロに自慢しています。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています(21:20)。」彼らはイエシュアを信じ、律法遵守においても完全にユダヤ人だったのです。(引用以上)

最初は少なかった異邦人信者の数:

「預言が成就しないとき」から続けて引用します:

一方、異邦人はどうでしょうか。使徒言行録の中でユダヤ人以外でビリーバーになった人を挙げて下さい。まず10章に出てくるコルネリウスとその家族です。彼は百卒長でしたから、家にも多くの人々がいたでしょう。100人ぐらいはいたかもしれません。景気づけのために500人と数えましょう。そして16章に出てくるフィリピのリディアですね。彼女は安息日に祈りに行っていたのですから、ユダヤ人の可能性が高いですが、とりあえず安息日を守る異邦人だったとしておきましょう。彼女とその家族もやはり500人として、これで1000人となりましたね。他にはどうですか。同じ16章にフィリピの看守も出てきます。彼はパウロとシラスを助け、洗礼を受けました。「その家族とともに」とありますから、やはり500人いたとしましょう。これで1500人です。他には誰ですか。テモテ、テトスですか。彼らも入れて1502人ですね。

ところで、8章に出てくるエチオピアの高官が異邦人だという誤解があるようですが、彼はユダヤ人です。彼は律法を学び、神を拝するためにはるばるやって来たのです。エチオピアには多数のユダヤ人がいました。異邦人が初めて救われたのは明らかに10章ですから、彼は異邦人ではありません。

その後、18章には「コリントの多くの人々」とありますね。これを1000人と見ても2500人余り。他に何カ所か異邦人が救われたという記述がありますが、数はさほど多くはありません。

以上の簡単な「統計」でおわかりいただけると思いますが、ユダヤ人たちはいつも拒否し、異邦人たちはいつも喜んで受け入れたというのは全くの錯覚なのです。(引用以上)

最初は教会は一つでした:

異邦人信者が一定の数に達し「クリスチャン」という名称が付けられるのが、紀元43年から44年頃とされています。使徒11:19-26において、ステパノ殉教から始まった迫害から、散らされたユダヤ人信者はフェニキヤ、キプロス、アンテオケに伝道しましたが、最初はユダヤ人以外には福音は語られませんでした。しかし、キプロス人やクレネ人が福音を受け取り、彼らはアンテオケへ行ってギリシャ人に伝えたところから、ギリシャ人へと福音が広がっていきました。アンテオケで信者の数が増えた話をエルサレムのユダヤ人信者共同体が聞きつけ、バルナバを派遣し、バルナバはタルソに滞在していたパウロを連れてアンテオケへ行きました。そこで、始めて、アンテオケの信者たちのことが「キリスト者」と呼ばれるようになったのです。ここから、本格的な「異邦人主体の教会」が発展していきます。

しかし、当初は「ユダヤ人の会堂」と「異邦人教会」と明確に分かれていた訳ではありません。続けて「預言が成就しないとき」から引用します:

一部の神学者たちは、異邦人の教会とユダヤ人の教会があり、二つに分かれて争っていたと考えているようですが、そうではありません。これらは一つの教会であり、お互いに補い合う関係にあったのです。

20章で、パウロは異邦人教会からの献金を集めてエルサレムにやってきました。彼はギリシャのフィリピで過越祭を祝った後、わずか五十日後にエルサレムに到着するために、当時の交通機関では大変急いで旅をしました。しかも、途中出会う人々のあらゆる反対を押し切ってエルサレムにやって来たのでした。それによって苦しみを受けることを知っていながら、集めた献金と、七人の異邦人の青年を連れて神殿に献げるために彼はエルサレムに向かいました。それは、異邦人とユダヤ人は一つであることを示すためだったのです。それが彼の使命だったからです。(引用以上)

では、ユダヤ人信者と異邦人信者との決裂は、どういう経緯から始まっていったのかは、次の「歴史の彼方へ去ってゆくメシアニック・ジューたち(1)」以降で述べたいと思います。

参考文献
聖書 新改訳
Messianic Judaism by Dan Cohn-Sherbok
「預言が成就しないとき」(ヨセフ・シュラム師講演速記録)シオンとの架け橋作成( 2007年3月発行)
「キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界」S.サフライ著 サンパウロ出版
Wikipedia: Judas Iscariot
Wikipedia: Kerioth

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